此等の場合に於て韓宣子の話は易と春秋が出來てから後に作られぬものでもなし、又季札の話は孔子が詩の編次を一定して後に作られぬものでもないことを注意しなければならぬ。朱子の如き其の語類に於いて、左傳に載つてゐる國の興亡に關する豫言は、其の事があつてから、溯つて作られたものと觀察してゐるなどは、頗る肯綮に中つてゐるものがある(三)[#(三)は自注]。
 されば古書に對して觀察の方法を誤らぬやうにするといふことは餘程きはどい業である。從來の考證家は多くは古書の中に含まれてゐる史實を根據としたのであるが、然し乍ら史實は却つて屡※[#二の字点、1−2−22]變化されて行くものであるから、あてにならない。左傳國語を始め、其中に含んで居る多くの史實を他の先秦古書に出てゐる事實と比較すれば、或は詳密であり、或は簡略であり、時としては全く其意味が違つたりしてゐることがあるが、これは畢竟其時の思想が根本となつて、其思想の發展によつて事實が曲げられ、其間に漸次事實が變化されていつたものである(四)[#(四)は自注]。それで實際先秦古書の批評の方法は古書の中の事實を辿るよりも、其事實の變化を來した根本の思想の變
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