各々別々の傳説であつたのであるが、後に其れが統一されて、后稷の母は帝※[#「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1−15−30]の元妃、契の母は帝※[#「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1−15−30]の次妃であるといふことになり、之を兄弟としてしまつた。斯ういふ風なことを見ると、事實と傳説とが如何なる關係を持つかを判斷するに、女眞族の祖先の如き事實を應用することが出來るであらうと思ふ。
日本に於ても同源傳説が種々に利用されるのであつて、大和朝廷の先祖と出雲國造の先祖とは兄弟であるといふ傳説である。即ち出雲國造の先祖も天照大神の子たる天菩比命であると云はれてゐるが、然し出雲國造が大和の朝廷に歸服した時の事實を見ると、日本紀では崇神天皇の時、出雲振根といふものがあつて、大和朝廷に歸服することに就て弟の飯入根と意見が異りたる所から、飯入根をだまして眞刀と木刀とを取り替へ、之を殺したのださうで、此の振根は又吉備津彦と武淳河別とに征伐せられて誅せられたといふ傳説があり、古事記では景行天皇の時、日本武尊が出雲建を騙して、やはり眞刀と木刀とを取替へ、之を誅したといふことになつて居るが、兎も角
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