始」でありますが、今度はもう一つ「猶」といふことを注意しました(7)。それはやはり左傳の閔公の元年の條に、「猶秉周禮」即ち魯の國が猶ほ周の禮をとるといふことを書いた所があります。それから僖公の三十三年の條に「齊猶有禮」といふことを書いてあります。之に就て王應麟は、茲に猶といふ一字を使つて居る所を見るといふと、大體に於て禮は久しく廢つて居つたのであるが、僅かに魯なり齊なりに猶その禮が遺つて居つたといふ意味であるといふことを言つて居ります。これらもやはり世の中が變つて居るのに茲に猶遺つて居るといふ意味でありまして、前の「始」といふのはこれから段々始まつて、そのことが段々後になつて盛んに行はれるやうになることであります。これらがつまり縁起譚として、何か其の當時あることの因《もと》、或は古くから傳はつて居ることの變つて來ることを現はしてゐるのであつて、これが縁起譚的歴史的思想であります。かういふことから、前代のことと今代のこととを比較するやうになつて、その變り目を考へて歴史といふものに關する考へが起るのであります。それがやはり歴史思想の一つの重大な起源であると思ひます。殊にこれは日本紀のやうなもので考へて見ますといふと、縁起譚が古傳説の重要な部分を占めてゐることが分りますが、幸ひに公羊傳なり左傳なりの中にやはり縁起譚的のものが遺つて居る所からして、之によつて支那の古代史の體裁、古代史の考へも分るやうになると思ひます。これが一つであります。
其の外に、支那の學者で左傳のことを研究しました汪中なども注意して居つたのでありますが、左傳に記す所は、人事のみでなく、天道・鬼神・災祥・卜筮・夢の五つであるとして、一々その例を擧げて居りますが、その中で歴史的思想に關係することは主に災祥・卜筮・夢の三つであります(8)。これは隨分色々歴史的思想の發生に關係すると思ひます。はつきり分りよいのが卜筮でありますが、左傳・國語の卜筮に關したことは、日本でも卜法の上から注意した人がありまして、谷川龍山といふ人が「左國易一家言」といふ本を作つた位であり、それに左傳・國語の卜筮に關した記事が大方載つて居ります。それを見ても分ります通り、大體この卜筮に關する記事といふものは、大抵皆――勿論あたつた八卦ばかり載つてゐるに違ひないので、あたらない八卦は大抵載つてゐないのです。恐らくこれは卜筮家の記録が根本だらうと思ひます。卜筮家としては、自分の家の職務で卜つたけれども、あたらなかつたといふことを書く必要はない。皆あたつたことを書くと、自分の家の職務として輝きます。さういふことから勿論あたつた八卦を書くに違ひありません。そのことは汪中も注意して、「史之於禍福。擧其已驗者也。」と云つて居ります。四庫全書提要には、「左傳載預斷禍福。無不徴驗。蓋不免從後傅合之。」とまで申して居りますが、それを日本の安井息軒先生のやうに、もつと眞面目に考へるといふと、それが道徳的に勸戒とするに足る正しいことだけ書いてあるやうに考へられますけれども、提要の作者や汪中は、もつと皮肉に見まして、やはりあたつた八卦だけが現はれて居るのだといふことを注意して居ります。その中で最も大きなあたつた八卦で世の中の問題になつて居るものがあります。それが或はこの左傳そのものの本の値打如何、眞僞如何に關係する問題に迄なつて居るものでありますが、支那でも七百年前の朱子などは、なか/\さういふことに對して隅に置けない皮肉屋でありまして、面白い批評をして居るのであります。この重大な關係と申しますのは、一つは齊の國の田氏のことであつて、田氏は齊の國を奪つて取りますが、この田氏の先祖といふものは、陳敬仲といふ人が陳の國から行つて齊の國に仕へたのでありまして、その末孫が大變盛んになつて、さうして到頭齊の國を奪つたのであります。その陳敬仲が始めて齊の國へ行つて仕へたことが左傳の魯の莊公の二十二年の所に出て居つて、そこに占が出て居りますが、それは段々その家が盛んになつて、八代の後になつたならばこれより大きな家がなくなるだらう、といふやうなことを書いて居ります。それに對して、朱子はハヽアこれはつまり八代の後になつてその家が大きくなつた所を見てから書いた、これは後から前の占のことを書いたのだ、――朱子は左傳といふものは、多くは後來の人が書いたのだと云つて居りますが――後に盛んになつた家のことを見てから、その家が始めて興つた時のことを遡つて書くから、それで旨いあたつた八卦が書けたのだといふことを言つて居ります。さうしますと、齊の國が田氏に易つたといふのは、戰國の初めになるのでありますから、その頃のことを知つた人が左傳を書いたのだといふことになるので、左傳の記録された時代の一つの證據といふものになり得るのであります。
又晉の國は後に韓・
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