に注意した人はなかつたが、明末になつて、焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]が出て目録學に志があり、國史經籍志を作つた。これは古く日本でも翻刻された。焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の目録學は鄭樵に負ふ所が多く、大體は四部の分類であるが、その子目の分け方、又子目の中にあるものの分け方は大分鄭樵を眞似た。いくらか體裁の異る點としては、四部以外に制書類を設け、之を劈頭に出した。これは御製・中宮御製(明代には皇后の御製が多い。)・敕修・記注時政に分けた。それ故、史部の中で、實録・起居注又はそれらを基礎とした個人の著述までをここに網羅して、四部の分類法を破つた。これは天子に關するものを別にする尊王心から出たが、分類法としては宜しきを得たものでない。又史類の中に於ても、いくらか新らしいものを入れて、例へば食貨を獨立させた。勿論起居注なども明代以外のものは史部に入つてゐる。集類の子目でも、制詔・表奏・賦頌を別集・總集の外に出したが、これも分類法としては混雜を來すのであつて、殊に賦頌を別にすると、別集から拾ひ出さねばならず、ただ例を破るに止まり、學術的にもならず、便利にもならぬ。この外に附録として糾謬を作り、漢書藝文志・隋書經籍志・新唐書藝文志・唐四庫書目・宋史藝文志・崇文總目・鄭樵の藝文略・晁氏の讀書志・文獻通考の經籍考の各目録につき、分類の誤りを正し、新たに入れどころを變へてゐる。分類の議論については大分考へたに相違ない。
ともかくこれが崇文總目・鄭樵の藝文略・校讐略以來絶えてゐた目録學に再び注意した特別の著述で、これより又明末清初にかけて、目録學の復興を促した。この國史經籍志は、一つ一つの書は書名だけで解題はないが、各子目については、その子目の末に總序をつけ、多少學問の源流に心を用ひてゐる跡が見える。その源流を論じた所には、時としては清朝の四庫全書總目提要の序論の基となつた所もあり、案外よく出來てゐる。これは宋以來あまり注意されなかつた目録學が、復た興ることになつた一つの機會で、その點では焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の骨折りは有益であつた。
明季清初の藏書家書目
明末から清初の間には随分藏書家が多數あり、その目録も大分殘つてゐる。例へば千頃堂書目の如きは一個人の目録であるが、後に明史藝文志の基礎となつたと云はれる。澹生堂書目も有名な書目である。絳雲樓書目・汲古閣藏書目(これには出版書目もあり、それには解題がある。)なども有名である。この頃から藏書の氣運が盛になり、個人の藏書目の中で解題を作つたものには、錢曾の讀書敏求記があるが、これは個人の藏書目に對し一つの特別な傾向を與へた。この頃、藏書家は互に珍本を獲たことを誇り、明末からそんな人々が大分あつた。謝在杭・徐※[#「火+勃」、426−15]・毛晉(汲古閣)・錢謙益(絳雲樓)などは互に珍書の收藏を誇つた。謝在杭・徐※[#「火+勃」、426−16]などの著にはそんな風が見える。錢謙益の絳雲樓は一度火に遭つて本を燒いたが、後にまた集まつて、その大部分は族子錢曾の手に入り、二代相續の有樣となつた。この頃から藏書家所藏の珍本は、その人が死ぬか又は家が衰へると別の藏書家の手に移り、珍本の收藏が系圖を引いて轉々した。清初以來有名な藏書家の本は、今日まで藏書家の手を經て傳來したものがある。又その中には日本にまで流れて、日本の藏書家の間を系統を引いて轉々してゐることがある。謝・徐二氏の本は、よほど前から日本に來て、伊藤東涯などは、その藏書印のあるのを見てゐるが、又圖書寮にも殘つてゐる。これは珍本收藏の傾向の結果である。
錢曾の讀書敏求記――異本書目の祖
この珍本收藏の最初の解題が讀書敏求記である。この外、徐※[#「火+勃」、427−8]・毛晉にも之に似た書目があつたが出版されなかつた。それで最も大きい影響を與へたのは讀書敏求記である。これより清朝一代を通じて、この種の目録は多く出で、乾隆頃から殊に盛であつた。殊にそれは珍書の解題であるから、版式とか、普通の他の本と異る所以とかを説き、書物の本質の解題ではない。日本でその影響を受けて出た立派な著述は經籍訪古志で、これは讀書敏求記が手本となつて出來たのである。
明史藝文志――正史藝文志の一變
眞の目録學即ち學問の源流に關する目録學としては別にその方の著述もある。正史の方の書目としては明史藝文志であるけれども、正史の藝文志は明史に至つて一變した。明史藝文志では、古來傳來の書籍の目録は一切省き、明一代の著述のみを集めたのである。その序に、焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志は詳博でよい本だと云はれたが、焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]は朝廷の藏書を見た譯でもなし、何か證據があつて今日どれだけの本が殘つてゐるかを書いたのではなく、ただ傳聞を書き集めたに過ぎず、書目の學問としては不確かである。それで昔からの傳來の書は一切省いて、明一代の著述のみを集めたと云つてゐる。どうして作つたかといふことは、明史稿によると、個人の家藏の書目を取つてやや整理したとあり、これは千頃堂書目などを取つたことをいふのである。從來正史の藝文志・經籍志は、支那全體の現在書目を示し、その書籍並びに學問の源流を論じたが、ここに至つて全く體裁も内容も一變した。明史藝文志は、體裁は大體新唐書藝文志によつてゐる。從來正史は斷代史なるに拘らず、藝文志だけは通史の性質を帶び、古來よりその時代まで殘つた書を現はしてゐたが、ここに至つて藝文志も斷代史的に一變した。かうなれば將來は清史もこの例を追ふより外ないであらう。
朱氏經義考・謝氏小學考・章氏史籍考
正史の藝文志には、かくて目録學の方針は現はれないことになつた。そこで學問としての目録學は他の方面に傳はらねばならぬ。それは明史の編纂當時から起りつつあつた。部分的のものではあるが、經書に關するもののみを取扱つた朱彝尊の經義考などは即ちこれである。これは又目録學に一種の新らしい方法を開き、書籍を存・佚・未見の三通りに分け、なるべく著述の要旨を知るために、その本の序文の如きものを集めることにした。後になつて之に倣つて謝啓昆が小學考を書いたが、これは小學に關するもののみを集めたものである。史部のものとしては、章學誠が史籍考を書く筈で、序録だけは出來、部門や卷數も見當がついてゐたが、解題は出來なかつた。これは新機軸を出す筈であつたが惜しむべきである。
四庫全書總目提要
かくの如く目録學として書籍の内容を知ること、源流を知ることは、正史を離れて他の方面に向つたが、それが乾隆の時に至つて四庫全書總目提要となつて現はれた。これは大體に於て崇文總目の復興といふべきで、年數も十年を閲し、あらゆる學者を集めてこの大編纂を行つた。初めから崇文總目を標準としたことは明かである。當時の學問が北宋に比べて、書籍の内容、書目の學問に關する智識が進歩してゐたので、出來上つたものは、勿論崇文總目よりも遙かに優つてゐると思はれる。もつとも崇文總目は滿足には殘つてゐないが、殘つたものについて考へると、四庫提要の如く解題として立派なものでない。
その總纂官は紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12](曉嵐)といふ非常な博識の人で、その下に集まつた學者も、當時有數なものであつたのみならず、古來よりの學者として考へても數百年に一度しか出ないといふ人達で、それが一部一部について詳しく批評し、その草稿を殆ど全部紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]が目を通して統一した。今日、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]が訂正して四庫提要に載せたものの外に、各學者の草稿も殘つてゐるが、これも立派で、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]の訂正したのと比べて何れがよいか分らぬものもあるが、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]は自分の見識により、その主張に合ふ樣に統一したのである。當時の有名な史學者邵晉涵が正史の解題を作つたが、同じ材料で全く別の意味にしたやうなのもある。とにかく紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]には一定の考へがあり、四庫提要の凡例に斷わつた主義の外に、斷わつてない一種の精神が全體に流れてゐる。之を研究すれば、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]の明言しない目録學が出來る譯である。勿論各部各子目の序論は紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]自身の筆で、これがすでに一種の著述といつてもよいものと云はれる。時としては焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志によつて書いた處もあるが、全體として一貫した意見があつたことは疑ひない。この人は妙な人で、この外には文集以外に何の著述もない。一生の精力をここに注ぎ盡したのである。彼の一種の主義と思はれるのは、經書とか歴史などで昔から知れ渡つてゐることには新たに解題をしないことである。邵晉涵は、史記についてもその由來を書いたが、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]は全然之を採用せず、本文には批評を加へずに、その注に解題を加へた。新らしく解釋するのも一つの方法ではあるが、あまりに知れ渡つてゐるからしなかつた。支那の如く長く學問の相續した國では、かかる方法も必要である。そこは支那の文化の程度を示した一種の目録であると云へる。
ともかくこれは支那で目録學の興つて以來の大著述である。しかし目録の學としては多少の非難もある。又各個人に分れて書くと、皆の本にはなかなか行き渡らぬ結果、一種の偏頗な四庫館式の方式が出來る。即ちどの本にも何か批評をせねばならぬところから、つまらぬ缺點を搜して何か一つは非難を加へる傾きがすべての解題に見え、正當な目録學でないと思はれる點がある。部類の分け方も、四庫館の人は皆鄭樵に反感を持ち、標準は崇文總目で、鄭樵の理論一點張りの目録學に反對し、鄭樵が學問的ならんとして分けた細かい處を打ち壞してゐる。地理・術數の中の子目につき、新たに種類を設けることは已むを得なかつたが、經・史については鄭樵の細別を捨てて崇文の大まかな分類に還した傾きがある。四庫提要の時に新たに設けた部門も多少あり、子部に譜録といふ部類を作り、又史部に別史とて、雜史でもなく覇史でもなく、正史の目的で書いて之の外に出たものがあり、又詞曲類を集部に設けたる如きである。又子部に道釋を加へたが、その教義に關するものは一切入れず、歴史に關するもののみを取り、道藏・釋藏は別にあることを認めて、四庫に全體を收録しなかつた。ただ明史藝文志までは、文史類をおき、これが批評の總論の學問のやうになつてゐたが、國史經籍志からは詩文評となり、文史類より一段と目的が下落した觀があり、詩文と同時に内容の思想、學問の源流を論ずることはなくなつた。四庫も之によつたが、これは當時存在した書籍が、詩文評に屬するもの多く、文史類に入れるものが少なかつた爲めにもよるが、又この學問の源流に關することを尊重する氣風が、四庫提要を作る時は殘つてゐなかつた爲めでもある。當時は考證學が盛で、一部一部については精細な論はあるが、學問全體の總論は精しくなく、これを卑むものさへあつた。この學者の氣風が四庫提要にも多い。これが文史類が復興せず、詩文評に落ちついた所以である。
全體の體裁としては、必要上より、著録と存目とに分つてゐる。これは大體四庫全書は天下のあらゆる本を集めたが、その中、立派な本は之を抄寫して帝室所藏本とし、これが文淵閣著録本で三萬六千册七萬九千餘卷ある。その他之に倍する本が集まつたが、それは一應目を通し、目録と解題だけを作つて寫本は留めない。これが存目の本で、これで標準を示したのである。この鑑識にも一種の標準があり、今日より見れば、存目に載つてゐる本の
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