々目録學に注意した人があつた。就中、高似孫は經略・史略・子略・集略の外、詩略・緯略・騷略を書いたらしいが、今日現存するのは史・子・緯・騷の四略だけである。しかも史略は支那には佚して日本に殘つてゐたものである。史略の序によれば、この人はやはり劉向等の學問を考へてゐたので、かかるものを著はしたのであることが分る。今日殘つてゐるものでは、史略と子略とは體裁が同じでないが、それにしても一家の見識を以て書いたものに違ひない。
 史略に於ては、まづ歴代の正史を調べ、正史に關することを色々の項目に分つて記述してゐる。例へば史記に於ては、太史公自序を擧げて作者の用意を示し、次に諸儒史議として諸家の史記に關する評論を掲げ、次に續史記を擧げ、次に史記注を擧げ、その次に先公史記注を擧げてゐるが、これには自分の自序を附し、司馬遷が父の業を繼いだやうに、自分も亦父の遺業を繼いで史學をすることを現はして、甚だ史記を尊んでゐる。次に同じ注ながら史記雜傳を別に擧げ、次に史記考、最後に史記音を擧げた。漢書も大體かかる分け方である。その他後漢書以後の歴史も出來るだけ色々の分類をして擧げてゐる。かくして五代史までの正史を擧げ、その他では東觀漢記を、一人の手に成らずして多くの人の手で作られた例として擧げ、又歴代春秋、歴代紀として編年史の體を擧げた。更に實録・起居注・時政記・唐暦・會要・玉牒・史典・史表・史略・史鈔・史評・史贊・史草・史例・史目・通史・通鑑(通鑑の下に通鑑參據書を擧ぐ)・覇史・雜史に及んでゐる。この分け方を見ると、大分鄭樵の議論の影響を受けたことが分り、幾分これに據つたであらうが、極めて簡單に、しかも多くは自ら筆を執らず、他人の書を抄録し、それによつて自然に歴史が大體分るやうにしてあるところは、後來の王應麟などの學風をすでに開いてゐるやうである。この他、王應麟と關係のあるやうに思はれるのは、既に絶えた書に注意して「七略中古書」といふ項目を擧げてゐることである。又古書の存亡についての大體の經過をも論じ、劉軻(玄奘三藏の碑文を書いた人か。この人の史論はこの史略に見ゆるのみ。)が司馬遷以來の歴史を書いた人の名を擧げたのを引いてゐる。史論としては劉※[#「協のつくり+思」、第3水準1−14−73]の文心雕龍から歴史に關する議論を引いてゐる。最後には、山海經・世本・三蒼・漢官・水經・竹書等、普通の歴史ではなく、變つたことを書いたものを擧げた。かく色々の方から史學に注意したが、ともかくあまり大部の書ではないが、それで大體歴史の觀念をつかむことが出來るやうに手際よく出來てゐて、學問の相當に出來た人であることが分る。
 子略は歴代の藝文志・經籍志に載つてゐる諸子に關するものを大體擧げてゐる。今日に於て特に貴重なのは、今日佚してゐる梁の※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]仲容の子鈔を擧げてゐることで、これは隋書經籍志に名のみ見えるものである。又通志の藝文略を載せてゐる。色々の本の解題をつけたが、好んで人の注意しない妙な本、例へば陰符經・握奇經などのやうなものにつけてゐる。この人も劉向以來の目録學の大意を心得てゐたと見え、學問の源流の分るやうに解題した。もつとも今日殘つてゐる子略は、百川學海に載つてゐるが、これが全體のものか省略のものか分らない。或はもつと多く解題があつたかも知れぬが、今日殘つてゐるのは諸子の一部分に過ぎない。
 高似孫の目録學に關する著述は以上の二つである。その他、緯略があるが、目録學の本ではない。目録學を經と考へ、これに對する緯であつて、史略・子略に於ては、學問の源流に關する大體の輪廓を示し、緯略では細かい事柄で讀書に際し疑問の起つたことに考證を加へたもので、中には目録學らしい處もある。例へば、世説の注に引用された諸書より歴史に關するものを全部抽出してゐるなどは、彼に目録學の知識があつたため注意がとどいたのであらう。これは一見隨筆の體裁であるけれども、著者の考では、目録學の遺を拾ひ、細かいことを補ふつもりで書いたものらしい。
 騷略は全然目録學ではない。屈原の離騷につづいて作つたものである。元來漢代までは、離騷に眞似て作つたものがあつたが、唐宋以後にはあまり流行らなかつた。彼は漢代の人に倣つて之を復活した。そしてその中に多少自己の境遇に關する心持を現はしてゐるやうである。

       高似孫の學風

 大體彼のやり方は、宋の時の一般のやり方と異り、漢以來の古い學問の仕方を復活せんとした。鄭樵の目録學の影響を受けながら、それより一段内容に立入つて考へ、又鄭樵の目録學は自己の頭で組織立てた理論であつたが、高似孫はすべて昔からあるものについて之を組織しようとした。即ち歴史に關する理論も、昔から多くの人が書いたものを引き拔いて並べると、そこに一種の史學が出來る。目録學より見て史學・諸子の全體を知らしめ、しかも自分の組立てた理論でなくして、人の議論を順序よく並べて、昔の人の議論で自分の説を立てようとする。これは學問の深い人でなければ不可能のことである。當時この人の學問に對し、以隱僻爲博といふ批評があるが(直齋書録解題)、ともかく他人の知らぬ本にまで行きとどいてゐた人である。緯略の中でも、色々の古書が殘つて居らないので、唐代の類書などから引用して、その學問の筋道を立てるに缺けた所を補はうとした。この方法は後に明清になつて大いに行はれたが、その風の元祖と云つてもよい。そこらも王應麟の學風と類し、學問の全體を組織せんとする時、現存書のみでは穴があく處がある。それを類書によつて補はうとした。鄭樵もこの點を考へなかつたのではないが、彼は單に書の名前の上のみから考へたので、時として僞書なども取つた。高似孫はよく類書その他の古書に佚書の一部分を殘したものを引き拔いて補つた。後に古學の研究に盛に用ひられた方法を、宋代に考へてゐたのである。當時の人に隱僻として考へられたのもこの點であるが、彼は目録學より全體の學問を考へる立派な方法を持つてゐたので、彼の書は量は少いが非常によいところがあるのである。史略を日本に得て、古逸叢書の中に之を收めた楊守敬は、その瑣末な點を擧げて之を攻撃し、これを子略・緯略に比してよほど劣ると云つた。そして歴史家の流別に關する議論は劉知幾の史通に詳しく、高似孫はその範圍を出でず、むやみに古書を引き拔き、詳略當を失すと云つてゐるが、これは彼の眞の學風を領解しない故である。もつともこの書は二十六七日間で出來た爲めに粗略なのであらうと云つてゐるが、この人は頭の中に歴史に關する考は前からあり、書き拔くのにそれだけの日數を要したに過ぎず、引用も極めて巧みである。ともかくこれは鄭樵以後の目録學に一新紀元をなしたもので、勿論鄭樵の影響は受けたが、鄭樵のあまり考へなかつた、本の内容に注意することや、亡書を目録以外に類書などより取ることなどは、彼の發明と云つてよい。

       王應臨の目録學

 次に來るのは王應麟である。その目録學に關する考は、玉海の中の藝文類にある。又漢藝文志考證を書き、玉海に附録されてゐる。この二つのものが主なるものであるが、彼は高似孫のやりかけたごく一部分のことに特に力を用ひ、之を以て一種の新らしい目録學を起した。即ち當時にあまり知られぬ本又はなくなつた本につき、内容の概念を與へることに骨を折つた。玉海には、當時に殘つた本のことも多く擧げたが、その擧げ方は、その本の内容の大體を知らしめるやうに擧げたので、内容の明かなものは簡單にし、むしろその本の出來るまでの他の本との關係に注意した。つまり現在殘つてゐる本と殘らぬ本との間の内容の連絡をつけ、歴史的に學問の筋道が通るやうに考へたのである。元來玉海は辭學の書として、文章を書くための――天子の詔敕などを書くための學問で、それには多く故事を知る必要があり、その目的で出來た書であるが、辭學として普通に役立つ以上に、學問になるやうに皮肉に考へて作られてゐる。王應麟が手を着ければ、類書たるべき書も學問となるのである。
 漢藝文志考證の方は、なくなつた本について、どれだけの内容が知り得るかを試みたもので、色々その本に關し、類書その他、古の本の注などから、佚書の内容を知り得る材料を集めて考證したものである。
 以上の二書によつて、王應麟の一種の目録學、即ち現在分つてゐる本と分らない本とをつなぎ、その穴を填める方法が分る。彼は高似孫より後の人であるから、その影響を受けたのであらうが、王應麟が大學者で、名声高く、又玉海が大いに世に行はれた爲めに、この學風は彼が元祖のやうに考へられてゐるが、その前に高似孫のあることを忘れてはならぬ。
 ともかく清朝になつて、學者の非常に骨を折つた輯佚の風は、すでに南宋の末年に行はれ、清朝人はこれを盛大にしたに過ぎぬ。しかも清人は單に輯佚を目的として、全體の學問の一部分として之を爲すことを忘れたことのあるのは、宋人に及ばぬ點である。

       馬端臨の文獻通考の經籍考

 王應麟と並んで有名なのは、宋末の馬端臨の文獻通考の經籍考であるが、これも勿論目録學上大切なもので、どうかすると、今日この本がないと解題さへ出來ぬ本が多い。崇文總目の大部分はこの本より復活された。彼の最もよく用ひたのは郡齋讀書志と直齋書録解題であるが、その他にも用ひ得べきものはよく集めた。彼も亦上手に人の書いたものを利用して自分の著述になるやうに排列した。これらは詳しく書かれ、解題の意味も明瞭なる爲めに、後世の人から珍重された。しかしその集め方は、高似孫、王應麟の如く、學問の全體の上より考へる意味があつたかどうかは疑問である。ともかく、解題らしいものは集めておいたので、一貫した主義はないらしい。清朝の學者は、己が使ふのに便利なものを褒めたので、――鄭樵の不評判や、楊守敬の史略攻撃もこの傾きがあると思はれる。――文獻通考は少し買ひ被つた嫌ひがないでもない。畢竟便利であるといふに止まり、著者の見識の見るべきものがあるのではない。しかしともかく目録學の材料としては、この經籍考は必要なものである。
 宋代の目録學は、以上の如く、崇文總目によつて一つの方法を生じ、鄭樵は理論を考へ、高王二氏は佚書に對する方法を發明したのが重要な點である。

       宋史藝文志――正史藝文志の行詰り

 元になると宋史藝文志が出來た。これは從來、亂雜であるとて攻撃されてゐる。宋史全體が不評判なために藝文志も攻撃されるが、その方法は新唐書藝文志と同じ方法を取つたに過ぎない。宋代に作られた四度の目録を一つに合併し、宋末の本で之に入らぬものを附加し、それらは唐志と同樣に不著録として載せたのである。ただ四度の目録を合併し、その重複を削つただけで、精密に之に關して考へなかつたので、手落ちや誤りがあつて攻撃されるが、それは新唐書も同じである。殊に宋末の如く非常に本の殖えた時には、目録學は困難とならざるを得ない。殊に宋の亡びて後八十年九十年たつて編纂するには多くの困難があつたのであらう。要するに宋史藝文志の頃より、宋代の著述目録としては多少參考になるが、それ以前の本に關しては、唐書藝文志からあまりに役に立たぬやうになつてゐるが、宋史藝文志もこの點に於ては同じである。卷數の如きも、前代の目録と同じであつても、果して同じ内容であるか否かさへ不明になつた。宋以前の古書については、清朝の學者も之には頼らない。ここに至つて正史の藝文志は行きつまり、古來の本をそのまま正史に著録することは漸く無意味となつた。それ故、これより後に正史を編纂する時には、藝文志を作らぬか、或は作るからには、別の方法を取らねばならなくなつた。これ明史の藝文志が古來の方法を一變した所以である。

       焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志――目録學の復興

 明になると朝廷では文淵閣に書籍を集めたが、文淵閣の書目は單に所謂簿録で、全くただ在庫書籍の帳面に過ぎず、殆ど卷數も書かず、外形より見た册數だけを録した。
 明代には全く目録學
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