につき、すでに立派な議論を出した人で、歴史は通史が本質であつて、斷代史を不可とする議論である。その目的で通志を書いたが、その中の藝文校讐二略は、目録學について新らしい意見を出した。從來目録學は、二劉以來相傳の精神があつて、目録はその傳統によつて作られたものであるが、次第に本來の趣旨を失ひつつあつた。その相傳の精神は、單に目録編纂の方法に一通り現はれてゐるだけで、その精神を纏めて議論としたものがなかつたからである。ところが鄭樵に至つて古來の目録學の精神を抽出して一纏めにして論じた。それが校讐略である。そしてこれを基礎にして自ら藝文略を作つた。それ故、藝文略は一家の分類法であつて、七略にも四部にも據らない。彼は全體の書籍を十二類に分つた。
[#ここから1字下げ、折り返して8字下げ]
經類第一 九家八十八種
禮類第二 七家五十四種
樂類第三 一家十一種
小學類第四 一家八種
史類第五 十三家九十種
諸子類第六 十一家、この中八家が八種、道釋兵の三家が四十種
星數類第七 三家十五種
五行類第八 三十家三十三種
藝術類第九 一家十七種
醫方類第十 一家二十六種
類書類第十一 一家二種
文類第十二 二家二十二種、外に別集一家十九種、書餘二十一家二十一種
[#ここで字下げ終わり]
これは校讐略に載せてゐるもので、藝文略のは之と少しく異同があるが、大體これが彼の分類法である。經類を九家に分けるのは、易・書・詩・春秋・春秋外傳國語・孝經・論語・爾雅・經解であつて、更にこの中、易については、古易・石經・章句・傳・注・集注・義疏・論説・類例・譜・考正・數・圖・音・讖緯・擬易の十六種に分つといふ工合で、分類法は頗る精密である。
大體鄭樵は史學全體に於ても、理論はよく出來て居るが、自分で歴史を作ると、あまりうまくは行かない。目録學でも、校讐學の理論はよいが、その作つた藝文略はそれほどよい出來とは云へない。殊にこの人の理論があまりに高いので、後人はややもすれば彼に反感を起し、清朝で四庫全書總目を作つた時もさうで、四庫簡明目録には、鄭樵が惡罵した崇文總目をほめて、その出來榮えは鄭樵の藝文略よりも十倍もよいと云つた。ややもすれば藝文略の出來榮えで校讐略の理論まで貶さうとするが、實は校讐略に至つて、目録學に始めて理論が立ち、學問らしくなつたのである。從來はただ精神だけが傳はり、作られたものからその精神の流れるのを暗に認めるに過ぎなかつたが、之をはつきり理論として纏めたものであるから、校讐略を謗るのはよくない。
校讐略の大要
この人の議論は、色々のことにつき、後世の學者に研究のヒントを與へた。殊に校讐略の最初にある、秦の始皇が儒學を亡ぼしたといふが、それは誤りであるといふ議論などは、後世の學者に議論の種を與へたが、彼がかくの如き論をしたのは、ただ世間の人が始皇が書を焚いたといふのに對して反對の議論を出して喜んでゐるのではなく、目録學より出た議論である。目録學は書籍の分類の學であるが、これは即ち學の專門を明かにするためのものである。學が專門になると、たとへ書籍が一時なくなり、一部分なくなり、或は殆ど全部なくなつても、決してこれが絶えるものではない。どこかに專門の學が傳はる以上、書物の形はなくなつても、別の形で傳はるか、精神で殘るか、書籍は亡びないものであるといふ理由で、秦の時學問が亡びたのではないとした。專門の學問がなくなると、書物の形はあつても書籍は亡びる。故に書籍は類例の法が大切である。例へば醫者の學問も、書物がなくなつたり殘つたりしてゐるが、醫者の學問は絶えない。釋老の書も、屡※[#二の字点、1−2−22]變改を經てゐるが、しかもその書は絶えない。漢籍に於ても、漢代の易の本は非常に多かつたが、多くは傳はらず、ただ卜筮の易は傳はつてゐる。卜筮は專門の仕事で、必要上これをなくされないから絶えない。それ故、目録學は、學問の專門を明かにするため、類例の法を明かにするのが根本であるといふ議論である。
これによつて上述の十二類の分類法を作つたが、これは從來の四部の分類法よりはよほど學術的に出來てゐる。從來の四部の中で、最も一纏めにすることの不合理なのは諸子類であつて、天文・五行・藝術・醫方まで皆これに入れてゐるが、これは不都合であるとて、十二類の分類法では皆これを分けた。殊に經書の中で、經類・禮類・樂類を分けたのはよく考へたもので、單に書籍により傳はるものと、禮樂の如く仕事によつて傳はるものとを別にしたのである。その中で、又色々細かい分類をしたが、これは學問の方法としては相當に綿密に出來てゐる。彼は昔の七略でさへぞんざいである、四部の分け方はあまりにやりつぱなしだといふ議論である。かくの如く類例を分け、專門の學術が明かになると、學術の根源も分り、學術の傳來も分り、昔ない本で新らしく本のあるものは新らしく出來た學問であることも分る。これは皆分類法の效能であるとする。
彼は又目録は必ず亡書を記すべきだといふ。これは亡くなつた本を書いておくと、一時亡くなつた本も或は搜し出すことが出來るからである。昔の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略・漢書藝文志、その後六朝までの目録にも、すべて亡書を書いてあると云つてゐるが、彼が六朝の目録を見たかどうかは疑はしく、隋書經籍志に梁以來の亡書を擧げてあるのから推したのであらう。唐からは有る本だけを書き、亡くなつた本を書かぬ。崇文總目にも亡書は書いてない。それ故、亡書はますます搜すことが困難となる。昔は亡くなつた本だけの目録を作つた。魏に闕書目あり、唐に搜訪圖書目あり、かかるものを作ると本が段々出て來る。自分の藝文略は、古今の有無いづれの本をも書いた。ともかく崇文總目はかういふ點が最も惡いと云つてゐる。これは目録學の根本の議論からかく云つてゐるのである。
又書籍に名は亡びて實の亡びざるものあることを論じてゐる。本はなくなつたといふが、その實が他の本に含まれ、或は他の一部分に含まれて、實際はなくならぬと同じものがあり、かかる本は何時でも復舊が出來ると云つてゐる。
又本のなくなるのは、校讐する人の失態によるものもある。例へば唐書藝文志には、天文類に星の書があり、風雲氣候の書がない。これは實際はあつたに相違ないが、目録を編輯する時に取り落したのである。そのため有る本が無いといふことになる。これが書籍の存亡に關する論である。
又目録を編纂する人の惡いことは、書名のみを見て内容を見ずに目録を作るものがあり、又本を半分見て半分を見ないものがあり、分類を誤ることがある。
又亡書を求める法としては、これを八箇條に分け、一、即類以求、二、旁類以求、三、因地以求、四、因家以求、五、求之公、六、求之私、七、因人以求、八、因代以求、といふことを論じてゐる。
又分類法の誤りについては、漢書藝文志以後、唐書藝文志・崇文總目に至るまでの諸分類の誤りを論じた。もつとも崇文總目の中にも良い點があるとして、特別に擧げてゐる所もある。
又解題法を詳しく論じた。目録の編纂は、分類さへ明瞭にすれば、解題の必要はない。注をする必要のあるのは人の姓名だけである。經書の類はすべて經類に入り、史書は皆史類に入る。これを解題して經なり史なりといふ必要はない。されば隋書經籍志には、疑はしいものにだけ解題がある。崇文總目が書毎に解題をしたのは無用のことであるといふ。その例を擧げて、宋代に出來た太平廣記は太平御覽から別出して異事のみを書いたものであるから、之を解題するにはそのことを書けばよい。然るに崇文總目には、「廣く群書を採り、類を以て門を分つ」とある。これはあらゆる類書に共通のことである。これでは太平廣記と太平御覽との區別がつかない。崇文總目の解題は大抵かくの如きもので、必要のない解釋をつけてゐる。又崇文總目の實録の部に唐の實録が載つてゐるが、それに一一唐人撰と書いてある。唐實録といふ以上、唐人の撰なることは云ふ必要はない。文集などでも、鄭樵の藝文略には、朝代を分け、唐人、宋人と分けてゐる。かうすれば姓名のみを書けばよいから手數が省ける。崇文總目には一一唐の誰、宋の誰の撰とあるのは不必要である。これらは誰でも分つてゐることであるが、崇文總目は注意しなかつたのであると云つてゐる。
又本には解釋すべき本とその必要なき本とがある。崇文總目は皆解釋した。本には名を見れば内容の分るものがある。例へば鄭景岫の南中四時攝生論などは、名を見れば分るものを崇文總目は解釋してゐる。陳昌胤の百中傷寒論なども名を見れば分る。それを百中は必ず癒る意などと解してゐるのは愚である。隋書經籍志などは、人の姓名のみを書いて、つまらぬ解題をしてゐない。ただ歴史の部の中で、雜史だけは混雜が多いので注釋をしてあるが、分り易いものは注釋してゐない。最も分りにくいのは覇史である。分裂した時の列國の歴史であるから説明せねばならぬ。趙に前趙・後趙があり、涼に北涼・西涼があり、混雜し易いために一一注釋してある。唐書藝文志は注釋すべきものも注釋しない。崇文總目はすべからざるものにもしてゐる。これ皆目録の體を失したものであるとする。文集類の分類法についても色々議論をしてゐる。
かかる分類法の混雜については、元祖たる二劉にさへ不滿を云ひ、七略などでも、よく出來てゐるのは專門家の作つた部分で、例へば兵略は任宏が作り、數術は尹咸、方技は李柱國が作つたから、この三つはよく出來てゐる。劉向父子の作つた三つは無駄があり、混雜もあり、出來が惡い。又文字の本だけを集め、圖譜を集めないのは、二劉の胸中に分類法がないからである。漢書藝文志もこれをそのまま取つたので、これも大いに惡いところがある。一體歴史は昔は一家の學問で、家學である。唐代になつて始めて多數の人の手で作つた。晉書・隋書がさうである。これにも長所があり、諸志類を專門家に任せたのはよい。殊に隋書の諸志は出來がよいと云つてゐる。
又學は專門を尊ぶことを説き、專門によつて分類しない失を擧げて、漢書藝文志で班固が七略にない書を加へたものは最も惡いとした。即ち揚雄の書を入れてあるのは、七略にはまだ入つてゐないのを補つたのであるが、それを揚雄所序三十八篇として、その中に揚雄の作つた太玄も法言も樂箴も皆入れてある。太玄は易の眞似、法言は諸子の類、樂箴は雜家の類である。これを一人の作だからとて一纏めにして儒家に入れたのは、班固が分類法を知らぬためであると云ふ。
その他、道家と道書、即ち老莊と道教の本との區別、法家と刑法、即ち申韓と律令との區別をしない誤りを説き、又醫術に於ても、漢書藝文志では色々分類をし、解剖學や生理學や内科外科の處方もある。これを後世一緒にしたのは、後人がぞんざいな爲めであると云つてゐる。
かく一一分類法の誤りを論じたので、これより支那の目録學の分類がやかましくなつた。
しかし鄭樵の議論には、往々理論が勝つて、實際に行ふと間違ひ易いこともある。即ち「闕書備於後世」「亡書出於後世」「亡書出於民間」等の論で、その闕書後世に備はるといふのは、同じ本が前に卷數少く後世に多ければ後に備はつたと考へた。亡書後世に出づといふことも、昔なくなつてゐたといふ本、例へば尚書の孔安國傳の舜典が漢に出でずして晉に出た――これは誤り――と云つてゐるが、これらは後に出る僞物のことを念頭におかなかつたのである。亡書の民間に出ることも、その主もな例として色々の本を擧げてあるのは、大部分は僞書である。これは單に目録の學の理論のみを主として、その本の内容眞僞如何を考へるに至らなかつた爲めである。かかる缺點があり、藝文略を書く上にも色々な缺點が出たが、理論に至つては、彼が始めて現はしたのであつて、從來は理論が編纂された目録の上に何となしに現はれてゐたに過ぎなかつたのを抽出して纏めたのである。この校讐略のために支那の目録學ははつきりしたのである。
高似孫の史略・子略
鄭樵の藝文略・校讐略が出てから、南宋時代には、色
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング