て書いた書籍集散の沿革も、舊唐書よりは粗略であり、又その目録は、舊唐書經籍志が開元までの本より著録してゐないといふので、その後の本を舊唐志に増入したが、その増入をするについては、何等の據り所を示さず、何處にあつた本かも明かならず、新唐志の作者が見たかどうかも確かでない。舊唐志に著録した本がどれだけ、著録しなかつた本がどれだけと書いてあるだけで、實際に左樣の本があつたのか否かも判然しない。この新唐書藝文志に至つて、目録學はますます墮落し、何もあてにならぬ目録となつた。この時までは、目録學が非常に惡くなつた時代である。もつとも新唐志とても全く據り所なしには増入する譯はないから、何か據る所があつたのであらう。今日から考へると、その如何なるものに據つたかを書かなかつたのが、この藝文志の大缺點である。それまでの目録は、すべて何處にあつたどういふ目録といふことを斷つてあるが、ここに至つて之を斷ることがなくなつた。これは歴史編纂上よりも、又目録學の上からも、著しい退歩である。この後、又次第に目録學復興の傾向が現はれた。
崇文總目
前述の如く、正史に載せられた目録は、新唐書藝文志に至つて、最も粗略にして目録學の體をなさぬものとなつたが、同時に他の方面に於て、漢書藝文志・隋書經籍志などの體裁を學んで作られた目録が出來てゐた。それは崇文總目である。不思議なことには、新唐書藝文志も崇文總目も、同じ人が關係してゐる。當時の有名な文章家歐陽修は、新唐書の主もな編纂者であり、同時に崇文總目の序録の大部分もこの人によつて作られた。崇文總目は、やはり四部に分けられた目録であるが、六十六卷もあつた大部のものが、今日では殘缺してしまつた。崇文總目の出來たのは慶暦の初めで、即ち宋の仁宗時代である。これは多分宋の末頃までは滿足な本が殘つてゐたらしいが、既にその前、南宋の初めからその略本が行はれ、後になつてその略本だけが行はれて、足本はなくなつた。清朝になつてから、四庫全書館で、これを出來るだけもとの體裁に復さうと試みた。それから又、錢※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23](錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]の一族)の兄弟友人等が協同して、この書の復舊を試み、その本は既に版になつた。之を復原するについては、大體、歐陽修の文集中にある崇文總目の序録を取り、序録以外はその他の本から取つた。文集から取つた序録は、經部・史部の殆ど全部と子部の半分ほどである。これで見ると、この崇文總目の編纂には、歐陽修はよほど有力な一人であつたと思はれる。然るに新唐書には粗略な目録を作つたのは、一方崇文總目に於て漢志・隋志以來の目録學の系統を相續するつもりで、新唐書の方を略したのかも知れぬ。
この崇文總目は、若し殘缺して居らなければ、相當立派なもので、隋書經籍志以來の學問並びに書籍の變遷を見ることの出來るものであつたかも知れない。その歐陽修の序録の中には、隋志と同じことを書きながら、遙かに隋志より體裁の整つたところがあり、學問の沿革を見るについても、非常にはつきりした觀念を與へる所がある。崇文總目は、後になつて、南宋の鄭樵などからは大いに攻撃されてゐる。それは一部一部の書籍に一一解題を附けたのがつまらぬといふ論である。大體分類さへ精密にしてあれば、一部一部の本に解題を附けるに及ばぬといふのが鄭樵の論である。これは又後世の學者から反駁を受けた。大體鄭樵は、今日の漢志・隋志ぐらゐを目録としての標準としたので、漢志の前に七略あり別録のあつたことを察しない議論である。それで單に目録學としては、本の名前をはつきりと書き、分類を精密にすればそれでよいといふ議論である。勿論崇文總目に書籍の一一の解題があつたとしても、到底それは七略別録の如く、著者の意志をうまく酌み取り、その學派の所屬を明かにし、分類の方法と相應じて批判的な目録を作るといふほど立派なものではあり得ないに相違ない。鄭樵の苛酷な批評も必ずしも全然當らずとは云ひ難いが、しかし後世の本には、書名によつて内容の如何を十分に知り難いものが往々にあり、多少とも解題のある方が目録として望ましいことである。目録の學問としては勿論七略別録などと對立するほど立派なものではないに違ひないが、幾分か目録學の意味を殘さうと試みた本であるには相違ない。これが全く略本だけ殘り、もとの足本がなくなつたのは遺憾なことであるが、かくなつたのは、鄭樵の議論の影響で、書名のみが殘り本文は削られたのであらうといふ人もあるが、これは然らずといふ説の方が確かのやうである。ともかく歐陽修の文集その他から、この大切な宋代の目録を、いくらかでも復原し得ることは、目録學の沿革を知る上には幸ひである。
唐宋間に於ける子目の變化
崇文總目は大體に於て唐の開元四部録の體裁によつたと云はれる。開元四部録が今日見られない以上、唐宋時代の目録の分類法は、崇文總目によつて見るのが捷徑である。この唐宋の間に、隋志の分類の子目が多少變化した。史部の中では、隋史で古史と云つたのは、舊唐書經籍志以後は皆編年と云ひ、部類の本質を現はすに至つた。新唐書藝文志並びに崇文總目より、實録といふ部門が出來た。その代り起居注などといふ種類がなくなつて來た。單なる起居注では非常に量が多くなるところから、唐頃より後には、之を編纂したものが現はれた。それで新唐書藝文志では、起居注類の中の小分けとして實録が入つてゐるが、崇文總目になると、實録の部を設けたが、起居注は全く省かれてゐる。しかし全く起居注の類がなくなつたのではなく、後の目録には復活したものもある。新らしい記録の仕方が出來ると共に、新らしい部目の出來ることが分る。六朝から唐の間に、氏族に關する系譜類が多く出來た爲め、隋書經籍志には譜系があり、舊唐書經籍志・新唐書藝文志には譜牒類があつたが、崇文總目では氏族部とした。又從來は年中行事のやうな種類のものは大體、朝廷に關するものが主で、それらは儀注類か故事類に入つてゐたが、崇文總目には歳時類が出來た。民間に於ける年中行事の書が多く出來た結果である。次第に年中行事の必要が貴族から民間に普及したことが分る。
子部の方でこの間に新らしく出來た部類は、類事(舊唐志)もしくは類書(新唐志・崇文總目)である。これは別に子部として何等一家言をなすものでもなく、何等特別の技術・藝術をなすものでもないが、何がなし世間のことを一般の人が知る必要より類書類が多く出來た。天子の爲めに出來た類書、試驗を受ける人の爲めの類書もあり、天子の爲め詔敕を作る翰林の人々の仕事の必要から出來た類書もあり、政治上の必要から官吏その他の爲めに出來た類書もある。大體一家の主義をなすためではなく、すべての事を一通り知るための本がこの時代に必要とされた。なほ崇文總目では、道家・釋家の本も子部の中に入れてゐる。
集部の中で特別なことは、新唐書藝文志・崇文總目ともに、文史類が出來たことである。これは大體、批評學である。近來の目録には詩文評類があるが、文史類は幾らかこれより廣く、且つ一部分の零碎な批評の外に、全體の著述を批評的精神で見るものをも含む。この部類の内容としては、詩文の評もあり、史通のやうなものまで新唐書藝文志では含ませてある。崇文總目では史通はこの中に入らぬ。そこは同じ歐陽修が兩方に關係しても、總體の人の意見が異つたのかも知れぬ。しかし主もな本としては文心雕龍などが中心となつてゐる。これが目録の最後の部類を占め、殊に新唐書藝文志では、これが何となしに目録學の結論のやうな形をなしてゐる。事實この種類の本に、別録・七略の精神が幾分殘つてゐる。新唐書藝文志は、心あつて史通までもここに入れたかは分らぬが、ともかく文史類が最後を占めてゐるのは、當時、批評學が目録の最後に來ることの必要が自然に感じられたのであらう。
この新唐書藝文志・崇文總目の間は、目録學の一つの時代で、正史の中に入れられた目録は惡くなつたが、その代りに崇文總目の如きものが特別の著述として出來ることとなつた。その後、南宋の時代には又一つの特別の状態が出來る。
宋祕書省續編到四庫闕書目
南宋の初めには、當時の朝廷としては、崇文總目にある書籍を復興せんとする傾きがあり、その爲めに出來た目録がある。もつとも崇文總目の時からして、官庫にある書籍の全部を録したといふ譯ではなかつたらしく、ややもすると、當時有つたに違ひなく、しかも必要な本で、總目に載せられてゐないのがあるらしい。一一引合せたことはないが、偶然の經驗から氣づいたのでは、當時司馬光が資治通鑑を作る時に(崇文總目の出來たより後のこと)引用した本の目録が、南宋の時の高似孫の史略に載せてあるが、その中に五胡十六國のことを書いた十六國春秋がある。それが崇文總目にはないやうである。この載るべき筈のものが載らなかつたことは、支那の學者も注意してゐる。官庫の書目より多少ぬけたり、故意に載せなかつたもののあることは隋志と同程度である。しかしともかくこれは官庫の目録である。それ故、南宋に於て書籍を復興せんとするや、宋祕書省續編到四庫闕書目を作つた。これは崇文總目を根據として、南宋の初め戰亂の後の現在書目を調べ、崇文總目にあつて闕けたものには闕と注し、搜訪に便するやうにしたものである。その時崇文院は祕書省と改まつた。これは崇文院の復興を目的として作つたもので、朝廷はこの時まで崇文院を標準としてゐたのである。
しかしその時既に目録に關する議論も新たに起り、南宋時代には目録學上に新現象が又起つて來た。新らしい考への出來たのは即ち鄭樵が通志を書いた時、その中に藝文略と校讐略とを書いたことで、これは目録學上よほど大切なことである。そのことは後に述べる。
私家書目の勃興――遂初堂書目・郡齋讀書志・直齋書録解題
今一つの新現象は、個人の藏書目録の盛になつたことである。その中最も有名なのは、尤袤の遂初堂書目、晁公武の郡齋讀書志、陳振孫の直齋書録解題などである。遂初堂書目は全く書名と卷數だけを擧げた目録で、これは鄭樵の議論によつたのだらうと云はれる。他の二つはいづれも詳しい解題のある目録である。もつとも學術の源流を調べるといふやうな大著述の志でしたのではなく、ただ自家の所藏本につき、卷數等のことを調べ、本の大體の性質、多少は本の沿革を書いたものである。それ故、これに載つてゐないからとて、當時その本が全く絶えてゐたとも云へず、これにあるのが當時の完全な本とも云へない。崇文總目の如きも、この二書には單に略本の一卷本しか載つてゐないが、その後まで崇文總目の完本があつたことは事實である。しかしこれに載せられた本の卷數は、その後今日まで引き續き存在する本が、南宋の時代に如何なる體裁であつたかを調べるには必要である。崇文總目は殘闕して、もとの形はなく、宋の官庫の目録で詳しい解題のあるものがなくなつた後に、幸ひにこの二書が殘つたので、後世の藏書家からは、この二書は頗る珍重された。
この個人の藏書目が盛になつたのは、やはり南宋頃に學問が一般に普及した結果である。從來は目録は官庫のもので、阮孝緒の七録も、私に作つたものであるけれども、私藏の本とは云ひ難い。南宋の時になつて初めて私家の書目が色々編纂されるやうになつたのである。これが南宋の末頃に於ても、すでに書籍の解題を知るためには、この二書以上に出るものはなかつたと見え、馬端臨の文獻通考の中に、經籍考といふ書籍志を作る時には、大部分はこの二書に據つたのである。馬氏は勿論この外にも參考したが、一部一部の解題としては、多くこの二書に據つた。かかることが南宋に起つたが、これよりも更に大きな問題は、鄭樵の通志にある藝文略・校讐略が目録學に與へた新らしい考である。
鄭樵の通志の藝文略・校讐略――目録學の理論化
鄭樵の通志の中に藝文略と校讐略とがある。鄭樵は南宋の初めに出た人であるが、祕書省の四部書の目録は既に見てゐる。彼は大體、史學全體
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