り、史部が大きくなり、經書から離れて獨立したのであつて、史學の學問の上からは退歩である。殊に著しいのは、術數の部の子目の數の減つて行くことで、これは專門の學術の退歩をよく表はしてゐる。もつともその中には、天文・暦算の如く進歩しつつあるものもあり、又專門の學とても雜占・卜筮の如く進歩しても役に立たないものもある。ともかくだんだん書籍の種類が減じ、文集の如きものが殖え、人が目的なしに書いたものが著述となる傾きがある。史部と文集との増加は、かかる書籍の増加を意味してゐる。

       抱朴子遐覽篇の道經目

 なほ仙道録に關聯して一言して置くことは、これより以前に、晉の葛洪の抱朴子の内篇に遐覽篇があり、それに晉頃までに出來た道經の目録が載せられてゐる。その何の本が七録でいふ四つの種類に當るか明かでないが、その中の諸符といふものが七録の符圖の部に當るものであることが分る。この符の類は、抱朴子にも卷數・種類が書いてあるから、計算すれば分るであらう。大體より見て、抱朴子の符録の種類は、七録・隋志よりも多いことは明かである。ともかく、七録とか隋志とかの仙道部の參考になるものとして知るべきである。

       隋書經籍志

 次は隋書經籍志である。これは正史に載つたものとしては漢書藝文志に次ぐものである。隋書の志類は、單に隋書の志でなく、志だけは五朝の志となつてゐる。その中でも、經籍志は又特別で、――大體は五朝は北朝のことを主に書いたが、――北朝は書籍については餘り注意すべきことがないので、梁の目録に重きを置き、それを隋書經籍志を作る當時の目録と引合せて書いてゐる。これは隋書についた經籍志であるが、書籍の現在は唐の時の現在である。その序を見ると、遠くは史記・漢書、近くは王儉・阮孝緒の七志・七録を見て參考して之を作つたと云つてゐる。隋書經籍志の序と七録の序とを見れば、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略以來の書籍の増減、その傳來、集散などの大體を知り得る。七録には既に七略から漢書藝文志、晉の中經、その他南朝の書籍増減の總數を書いてゐるが、隋志にも書籍集散の事情をよく書いてゐる。書籍の選擇についても、隋志はよく考へてあつて、舊來の目録に載つてゐるものでも、役に立たぬつまらぬものは之を削り、昔の目録に落ちてゐるものでも、役に立つものは之を入れたと云つてゐる。又各※[#二の字点、1−2−22]の書籍の下に、梁の時に於けるその書の有無及び梁の時との卷數の異同を注してゐる。梁の時といふのは、はつきり斷わつてないが、七録に據つたのであらう。梁の時には官書の目録もあつたが、それは唐初に存在したかどうか分らぬ。確かに存在したのは七録で、七録との異同を書いたものであらう。梁の時にあつて、隋志の時に亡んだ本も入れてあるので非常に役に立つ。これによつて七録を復活して見ることが出來る。勿論七録にあるのを省いたのもあらうが、ともかく、隋志に梁にあつたと書いてあるものによつて、七録の大部分は復活される。復活できないのは、佛法・仙道の二録で、これは四部以外のものとして、一一書名を擧げてゐない。
 隋書經籍志の分類は、經・史・子・集の四部であつて、これに道と佛とを附載したが、これは餘分のものとして、一一書名さへ擧げず、四部の分類はここに確定した。そしてこれが正史に入つた結果、爾來四部と一定し、その子目も、多少の變化はあるが、隋志の區分法は、清朝に至るまで行はれることとなつた。隋志は漢志の方法を學んで、各子目の書籍を列べた後には、必ず各※[#二の字点、1−2−22]總説があり、四部の各部の終りには、各部の總論がある。ただこれは二劉の時代とは異り、學問の方針は既に二劉の時代に出來上つて居るので、隋志は主にその以後の學問の變遷を書いた。これは漢志以後の書籍の目録であると共に、漢以來の學術の概括された歴史である。尚書ならば尚書の傳來の歴史を詳しく述べ、それによつて、各※[#二の字点、1−2−22]の本が如何に傳へられ、如何に學説が増加したかが、之を一見すれば直ちに分るやうにしてゐる。隋書の編纂には唐初の有名な學者が關係し、殊にその志類は學者たちが專門々々によつて關係したので、經籍志に載せた各種類の總説に於ても、沿革をよく概括し、今日に於ても、漢以來六朝の學問の變遷を知るには之に頼らねばならぬやうになつてゐる。子目の種類は、七録の處で云つた通りであるが、かく子目の種類を分合した由來も隋志に述べられてゐる。その書法の大體はよほど漢志に眞似たところがあり、強ひてその型を眞似すぎたところもあるが、ともかく、漢志以後、現存する目録としては、之に越えるものはない。ただそれが漢志の模倣で、獨創でないだけに、二劉時代より學問の衰へを示してゐることは已むを得ない。

       經典釋文序録

 隋書經籍志と同時代に、參考とすべきものがある。それは經部としては陸徳明の經典釋文序録、史部としては劉知幾の史通の一部分である。陸徳明は唐初まで生存してゐたが、その前から有名な學者であるから、經典釋文は唐になつてから出來たかどうかは疑問であるが、しかし大體同時代である。隋書經籍志を書いた魏徴よりは先輩であらう。これは易・尚書・詩・周禮・儀禮・禮記・春秋(左氏傳・公羊傳・穀梁傳)・孝經・論語・老子・莊子・爾雅に序録を書いたのであるが、それにはこれらの書の學問に關する傳來と、隋末唐初までの陸氏の見た本の目録を書いたのである。これも阮孝緒の七録を參照し、七録の目録と比較した處があり、これらの書に關する目録としては重要なものである。その傳來に關することは、隋志よりも詳しい位で、今日でも經學の傳來を見るには極めて必要なものとされてゐる。

       史通六家

 劉知幾の史通は少し時代が後れ、劉氏は則天武后の時から中宗・睿宗頃にゐた人であるが、この史通は大體武后の時の作で、中宗の時に出來上つてゐる。この本の全體は、當時に至るまでの歴史に關する總論であるが、その中に歴史の種類を分けたところがある。即ちこの書の第一篇に六家篇があり、尚書家・春秋家・左傳家・國語家・史記家・漢書家に分けた。この時は既に隋書經籍志もあり、七録もあり、色々の目録に關する本があり、大體史部の分け方はほぼ一定してゐたが、劉知幾は自己の考へで別な分類法を考へたのである。これは書籍の内容よりは、歴史を編纂する主義の如何よりして分類したものである。内容よりの分類は隋志で十分であるが、彼は歴史の本質を考へ、その主義を見たのである。たとへば、尚書家は或る一つの事件によつて記録する書き方を云ふ、春秋かは、一方には編年體を用ひながら、一方には褒貶の意を以て書いたもので、後に史記は本紀をこの體裁によつて書いた。この後、國史を作るものは、本紀はすべて春秋の體裁によつた。尚書と春秋とを比すれば、尚書は記言、春秋は記事である。――尚書中にも記事に關するものもあるが――後世これによつて、春秋の體裁のものを作り、又尚書と名づけるものを作つたものがあるが、多くはその本來の意味を失つてゐることを云つてゐる。左傳家も編年體であつて、これがむしろ後世編年の正體とされた。春秋の如く褒貶することは後世用ひられず、左傳の如く編年によつて記事を書く方法が盛に行はれるに至つた。元來、傳といふのは、經を解釋する意味であるが、單に解釋に止まらず、詳しい記事を書くことになつた。この體は後世盛に行はれ、隋史に所謂古史家である。(隋史では、紀傳體を正史とし、編年體を古史とす。)國語家とは、國別に書く歴史である。戰國策もこの流儀の歴史であり、その後、支那の國が分裂する毎に、この體裁の歴史が屡々用ひられたが、次第に史記・漢書の體裁が盛になるにつれて、國語家の體裁は衰へたと云つてゐる。史記家と漢書家とは、共に紀傳體の歴史であるが、史記の方は通史で、漢書は斷代史である。これが兩者の間の相違である。大體漢書が出來てからは、正史は斷代史の體裁になつたが、時々は通史の體裁で歴史を書いた人もあり、劉知幾はむしろ正史は斷代史をよしとしたが、後になると、歴史は通史でなければならぬといふ論も起つた。ともかくこの二つの區別あることを認めたのは劉知幾である。大體以上の如く六家に分けたが、これは歴史を作る人の主義より云へば、かかる分ち方も必要であるが、現存せる書籍の分類としては不便であるから、――勿論劉氏は目録學のために考へたのではないが――他には採用されなかつた。しかし隋史で書籍の内容に關する目録が出來るとともに、編纂の主義より來る分類が唐初に考へられたことは、目録學上參考すべきことである。

       日本國現在書目録

 支那でこの次に來るのは舊唐書の經籍志であるが、この前に、日本の本でちやうど隋唐兩志の間に出來た日本國現在書目録がある。藤原佐世の撰で、宇多天皇の寛平年間に出來たものの如くである。これは、從來日本で支那の書籍を輸入して居り、そして朝廷の藏書は多く冷然院にあつたらしいが、これが火災に遭つて燒けた。その後再び集めて、この目録が出來たのである。冷然院は火を忌んで冷泉院と改稱した。これは目録學としては、何等取るべき所のないもので、大體は隋書經籍志の分類によつてゐる。舊唐書の經籍志も多く隋志によつてゐるが、分類の内容は變つてゐる。然るに日本國現在書目録は、實際の分類の仕方まで隋志と同じである。舊唐書經籍志は、玄宗時代の古今書録によつて書いたもので、古今書録は見在書目録以前のものであるが、佐世はこの分類は取らなかつたのである。これに載つてゐる本の名を見て、隋志と舊唐志との間にある本を知るためには必要のものであるが、目録學そのものには大した意義はない。

       舊唐書經籍志の退歩

 舊唐書經籍志に至つて、目録の學は又一段の退歩をした。この經籍志には、各部門の總論もなく、各子目の總説もなく、單に隋志以後唐代の書籍の集散に關する全體の總論があるのみである。各部門の書籍の傳來、學問の傳來を知るべき材料は全くなくなつた。經籍志とは云へ、單なる簿録に止まり、學問の流別、沿革を知るものとはならず、目録ではあるが目録學とはならぬものになつてしまつた。その總序によると、この書の根據としたところは、玄宗の開元年間に政府の書庫に集められた書籍の目録である。この開元の時の目録作製に關係したものには學者が多いが、その主なる一人に毋※[#「(日+巨)/火」、405−7]がある。この時出來た目録は群書四部録と云つて二百卷あつた。それを毋※[#「(日+巨)/火」、405−7]が省略して古今書録四十卷とした。その後、書籍は散佚し、唐の文宗の時にまた集められたが、再び散佚した。舊唐書經籍志は五代の時に出來たが、五代の現在の書籍には關係なく、開元の盛時、毋※[#「(日+巨)/火」、405−9]の作つた古今書録によつて出來たのである。大體は四部の目録で、隋志と大差はない。ただ古今書録には經解・詁訓が子目に現はれた。しかし舊唐書經籍志では、經解・詁訓は皆讖緯と小學の兩方に合併されてゐる。ともかく、古今書録までは、やはり部に從つて皆小序があつたと云はれ、大體漢志・隋志と同じ體裁であつたらしい。しかしそれは極く大體だけで、漢志や隋志の如き綿密な各部の總論があつたのではなく、主もに新たに目録を作つた所以を明かにするだけのことを、毋※[#「(日+巨)/火」、405−13]は序文として書いたらしい。
 ともかくこの時までは、或る場所に現存してゐた書籍の目録である。漢志は七略に班固が多少出入を加へたが、これは班固が親しく見た本によつて加へたのである。隋志も大體現存を考へて四部に分けたもので、唐初の現存書目である。その以前の七志・七録もさうである。舊唐書經籍志も之を作つた時の現存ではないが、毋※[#「(日+巨)/火」、406−1]の時の現存書目である。日本國現在書目録も現存書目である。この體裁が崩れたのは新唐書藝文志からである。

       新唐書藝文志の粗略

 新唐書藝文志は北宋の時に出來たが、これは、總論とし
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