瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]・李充の四部の目録によつたものに、宋初の有名な文人謝靈運の作つた四部目録があつたが、この時これを改正し、又大體に於て別録七略時代の内容的の分類法に復歸せんとしたものである。この七志の分け方は、
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一、經典志 六藝・小學・史記・雜傳を紀す
二、諸子志 古今諸子を紀す
三、文翰志 詩賦を紀す
四、軍事志 兵書を紀す
五、陰陽志 陰陽圖緯を紀す(隋書經籍志には陰陽圖緯としてゐるが、阮孝緒の七録序の説では數術に當るとしてゐる。)
六、術藝志 方技を紀す
七、圖譜志 地域及び圖書を紀す
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となつてゐるが、この外、七略にも藝文志にも中經簿にもない本、並びに方外の經、即ち大體佛教・道教の本は、七志以外として附録した。これは七志の數に入らぬが、新部類である。故に王儉の七志は實は九部類に分れると隋書經籍志に云つてゐる。この七志の分け方は大體、別録七略の分け方に復舊したので、四部の分け方を慊らずとしたのである。經典志の中に、史記などの歴史部のあるのがその著しい證據である。ただ地理・地圖に關係したものを新たに作つたのは、一體六朝時代には地志の類が多く出來た。別録七略時代には、地志はまだ一つの部類とならず、山海經の如きは、數術中の形法家に入れられ、即ち土地の吉凶を觀る、支那に今日ある風水・相墓・相宅の部に入れられたのである。然るにこの以後、地志の書が多くなつたので圖譜志の一類を創めたのである。漢書藝文志までは、七略といつても實は部としては六略で、あとの一つは總論であるが、王儉の七志では皆部類となつた。大體に於て別録七略への復舊であるが、その間、新しく出來た本のために新たな部類を作ることの已むを得ぬことが、この時に現はれた。又古にはなかつた佛教・道教の本も、七志の外として新たに部類を作らねばならなかつた。この時の目録は大部なものであつたと思はれ、七志の卷數は四十卷あつたといふ。

       阮孝緒の七録

 この分類は、梁の阮孝緒が七録を作る時に至つて又變化した。阮孝緒は、その分類の方法、考へ方を詳しく述べてゐる。七録の分け方は、全體の本を内篇と外篇とに分け、一より五までが内篇、六七が外篇である。これは佛教の方で佛教の本を内典とし、儒教の本を外典とするのと正反對で、支那在來の本を内篇とし、佛教・道教の本を外篇とした。七録の分け方は左の如くである。
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經典録内篇第一 易部・尚書部・詩部・禮部・樂部・春秋部・論語部・孝經部・小學部
記傳録内篇第二 國史部・注暦部・舊事部・職官部・儀典部・法制部・僞史部・雜傳部・鬼神部・土地部・譜状部・簿録部
子兵録内篇[#「子兵録内篇」は底本では「子兵録内典」]第三 儒部・道部・陰陽部・法部・名部・墨部・縱横部・雜部・農家部・小説部・兵家部
文集録内篇第四 楚辭部・別集部・總集部・雜文部
術技録内篇第五 天文部・讖緯部・暦算部・五行部・卜筮部・雜占部・刑法部・醫經部・經方部・雜藝部
佛法録外篇第一 戒律部・禪定部・智慧部・疑似部・論記部
仙道録外篇第二 經戒部・服餌部・房中部・符圖部
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これについて阮孝緒は、
(一)經典録 經典と名づけることは、王儉の七志の從つたと云つてゐる。大體七録は、二劉と王儉とを參照して作つたが、王儉が※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の六藝といふ名稱では經目を標榜するに足りぬとして經典としたのは都合がよいから之に從ふと云つてゐる。
(二)記傳録 但し※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]も儉も史書を春秋に附してゐるが、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の時代は史書が少なかつたから春秋に附したのは良い例であるけれども、今は衆家の記傳は經典に倍するほどあり、しかも猶ほ王儉に從つてこれらを經典に入れては、多過ぎて蕪雜になるとて、經典より史傳に關するものを拔いた。さうして、かかることをしても差支ない例として、七略の詩賦は別に一部類をなして、六藝の詩部に入つてゐないが、これは當時詩賦の數が多かつたので一部類を立てたのであるから、その例によつて、多くの史書を經典部より分つて記傳録とした。
(三)子兵録 諸子部は※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]も儉も同じく諸子と稱した。然るに※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]には別に兵書略がある。これを王儉は、兵の字が淺薄で、軍の字の方が意味が深廣であるとして、改めて軍書志とした。然るにこれは王儉の考へが必ずしもよくはなく、古より兵の字の用ひ方廣く、武事の總名となつてゐるから、やはり軍と云はず兵といふ方がよい。しかし兵書は數が少い。一部門を立てることは不都合であるから、これを諸子と合併して子兵録とする。
(四)文集録 王儉は※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が詩賦略と云つたのを、詩賦だけでは言葉がせますぎて他の種類を兼ねられぬとて分翰と改めたが、文を作れるものはすべて之を集にする。よつて翰を改めて集とするがよいとて文集録とした。
(五)術技録 王儉は※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の數術といふ名稱は繁雜であるとして陰陽と改め、方技の語は昔の本に典據がないからとて改めて術藝とした。しかし阮孝緒は、陰陽は數術の包括的なるに及ばず、術藝は六藝と數術とにまぎらはしいから、やはり方技の方がよいとした。但だ七録では道教を別に立てたので、方技の中より房中・神仙を除いてその方に入れた。そこで方技は書數が少くなるので、方技と數術とを合併して術技録としたのである。
 王儉の圖譜志は※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略にはない。七略に暦譜があるが、王儉の圖譜とは別物である。大體は圖譜は圖畫に關係するが、圖畫は何れも獨立したものではなく、書籍に附屬したものであるから、元來書籍の中に附した方がよい。又圖譜の中には繪ときのやうな注記のあるものがあるが、これは記傳録の末に附した。以上を内篇とする。
(六)佛法録 佛教が支那に入つてから、孔子の派と殆ど同じだけの本が出來た。王儉はこれを載せても、七志の外に出したが、落着きが惡いので、之を一部として外篇第一とする。
(七)仙道録 これは古くからあるが、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]は神仙を方技の末に入れ、王儉は道經を七志の外に置いた。今、仙と道とを合して外篇第二とする。王儉の目録では、道を先にし佛を後にしたが、今之を佛道の順序に換へたのは、教に深淺あるによると云つてゐる。
 七録は梁の普通四年に出來たが、これは王儉の七志と比較してゐるので、之によつて七志の趣旨の大體を窺ふことが出來る。七録には、その末に、文字集略三卷と序録一卷とが附いてゐる。これは阮孝緒自身の著述のやうであるが、果して初めから七録に附けたのかどうか分らない。その外の阮孝緒の著述と共に、廣弘明集では附載してあるが、これは廣弘明集の作者が加へたのかも知れぬ。これによると、七録は大體十一卷の著述である。

       七録と隋書經籍志との比較

 七録の目録の大きい分け方は前述の如くであるが、その子目を見ると、七録に分れてはゐるが、すでにその内容に於ては、次第に隋書經籍志の四部の分類に近くなつてゐることが分る。さうしてその或る部分は、著録された書の卷數まで殆ど同じい處があるから、今日七録の書籍一一の目録は殘らないが、或種のものは、その書籍も隋書經籍志と同じものを含むのではないかと思はれる。七録と隋書經籍志との子目の異同を比較して見ると、
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(七録)經典録 易・尚書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學
(隋志)經部  周易・尚書・詩・禮・樂・春秋・孝經・論語・讖緯・小學
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大體は同じく、ただ隋の時に、讖緯を禁じて、これに關する書を燒いたので、七録では術技録にあつた讖緯を、隋志では經部に列して、僅かに殘つてゐた書籍を擧げた。
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(七録)記傳録 國史・注暦・舊事・職官・儀典・法制・僞史・雜傳・鬼神・土地・譜状・簿録
(隋志)史部  正史・古史・雜史・覇史・起居注・舊事・職官・儀注・刑法・雜傳・地理・譜系・簿録
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七録にあつて隋志にないのは鬼神であるが、如何なる種類のものであるかは分らない。隋志に新たに出來たのは古史・雜史の二つであるが、これはもと國史の中に入つてゐたのであらう。僞史が覇史となつてゐるなど、多少名目上の差はあるが、要するに内容は大體同じであつたことが認められる。
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(七録)子兵録 儒・道・陰陽・法・名・墨・縱横・雜・小説・兵
(同)術技録  天文・讖緯・暦※[#「竹かんむり/下」、398−1]・五行・卜筮・雜占・刑(形)法・醫經・經方・雜藝
(隋志)子部  儒・道・法・名・墨・縱横・雜・農・小説・兵・天文・暦數・五行・醫方
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七録の陰陽家は隋志では五行に入つたのであらう。讖緯は前述の通りである。卜筮・雜占・形法も五行に合せた。醫經と經方とを分けるのは、漢書藝文志の分け方で、基礎醫學と醫術を分つたものであるが、之を合併して醫方としたのは學問の退歩である。陰陽のなくなつたのも、諸子の學の衰へたのを示す。且つ隋志では、かく子目は多いけれども、各部門に載せた本は極めて少い。
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(七録)文集録 楚辭・別集・總集・雜文
(隋志)集部  楚辭・別集・總集
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隋志では雜文は總集に合せた。これも七録の方が幾分精密である。
 佛法録は、戒律・禪定・智慧・疑似・論記とあるが、この分け方は、今日現存する佛書のどの目録とも合はない。隋志とも勿論合はない。隋志は大乘・小乘を分ち、經・律・論に分けてゐる。七録は戒・定・慧の三學から分け、内容的分類であつたが、後には便宜的の分類が盛になり、内容からの分類は起らなかつた。阮孝緒の頃は、僧祐が出三藏記を作つた頃であるが、これはもつと便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない。大體佛教の方の目録は、その後まですべて索引目録が主で、内容目録になつたことはない。佛教學者には目録の智識は發達しなかつた。この頃から佛教には僞物が多かつたと見え、疑似の部がある。又論記は後に生じたものを別にしたので、この區分法はよく出來てゐる。
 仙道録の子目は、經戒・服餌・房中・符圖であるが、これは隋志も殆ど同じで、ただ符圖が符録となつてゐるだけである。この中、服餌・房中・符圖の三部は隋志と卷數まで同じである。その間、全く道教の本が殖えなかつたのではないが、隋志の時、著録すべき本として取り上げられたものは、七録の時と同じであつたことが分る。

       六略より四部への過渡とその意義

 七録の中には、右の如く佛法・仙道が加はつてゐるのであるが、隋志では之を四部の外に出してゐる。故に七録でも之を除けば、實際は五録に過ぎぬのであつて、この五録は梁の時の官書の五部と一致してゐるのであらう。さうして五録と云つても、子兵と術技とを合すれば子部になるのであるから、その内容は殆ど四部に近い。七録は漢書藝文志の六略より隋志の四部に至る過渡に現はれたもので、これを兩者の間に挾んで見ると、その變遷の有樣がよく分る。七録は單に録の名と子目だけが殘つて、書籍名は一つも無いけれども、之によつて大體を知ることができる。
 この六略が四部となりつつあるのは、やはり支那の學問の變化によるのであつて、專門の學術は次第に衰退しつつあることを示してゐる。史部の書の増加することは、年數のたつとともに當然であるが、歴史としても、初め司馬遷が史記を作つた時のやうに、春秋の後を繼いで一家の言を立て、著述者の批判によつて作り上げる歴史は次第に衰へ、單に記録そのものの種類が増加することが分る。記録が自然に積み重な
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