の各※[#二の字点、1−2−22]の職務、各※[#二の字点、1−2−22]の流儀の學で持ち傳へてゐる事柄は史記には書かず、その傳來して來た書籍を調べるについて、歴史・傳記の必要があるので、その部分を書いた。單に本の由來を知るためのみではなく、あらゆる學問の中で、最も總括的な最大の學問は史學であつて、史學は世の中を經綸する學問であり、史學が古來から漢代までの學問の關係を知る學問であるとし、この根本の古今一貫した學問を知れば、當時世に殘つてゐる書籍はそれによつて總括せられ、色々の本はあつても、その全體に關係があり、世の中の經綸に役立つといふ考へで史記を書いたのである。
 二劉はこれと異り、司馬遷が史記に載せないで、そのままにして世間に殘しておいたその方を全體に總括したのである。これは一書毎に解題を作り、その由來・主張・得失を一一の本について書き、之を子目ごとに一纏めにし、更にそれを一纏めにして六略の各部類とし、全體を六略とし、その六略の上に輯略を作つて全體を總論した。即ち各※[#二の字点、1−2−22]の本の部分的方面より見て行き、最後に總括されたところで、人間の思想・技術が古來如何に動いたかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。
 かくて司馬遷と二劉との考へは大分異る點がある。司馬遷は史記の一家の學を以て全體の本を總括せんとしたから、自ら春秋の意を取り、之に繼いで作ると考へてゐるが、六藝全體は殆ど之を總括して、六藝の正統の書として史記を作つたと考へてゐる。二劉より見れば、史記は春秋に繼いで作つた本で、六藝略に入るべき一書に過ぎぬ。司馬遷から云へば、二劉のしたことは枝葉のこととなり、二劉よりすれば、枝葉の全體を總括するのが學問であり、史記もその一部分といふことになる。司馬遷は史記を作つて學問を總括したと考へ、史學を學問全體の總論と考へたが、それより百年もたつた後の二劉は、史學の獨立を認めず、六略にも史學はない。これは當時史書の數が至つて少かつた爲めもあらうが、根本は見方の相違である。司馬遷が史學を創立したのは、過去の事實を總括したのみではなく、將來の學問を暗示したものであるが、二劉は過去の學問を總括することを以て學問とした。しかしともかく、この二書は、漢代の最大の學術的收穫で、これだけで支那の學術は盡きてゐると云つてもよい。その後、書籍も色々出來、分類法も色々變つたが、全體に於てこの二大學問の流れに過ぎぬ。その後、史學即ち司馬遷の始めたことは大發展をし、書籍の分類の一大部分を占めることになつた。又あらゆる支那の學問に、司馬遷の考へたやうに、春秋の法を以て事實を記録する精神を與へた。一方書籍の分け方は、二劉の後も、彼等の最初考へた六略の趣旨を出ない。ただ史學が厖大に食み出しただけである。又あらゆる著述・分類に對し、支那人が歴史的意味を以て考へることも少しも變らない。ただ二劉ほどの頭の人が出なかつたので、二人よりも拙いものを作つただけである。

       七略の史的書法

 この七略――今日の藝文志を見ると、歴史的に或る著述を考へることは、極めて部分的な一一の本の目録の上にも考へられてゐて、大體に於て、書名の下に附いてゐる注釋なども歴史的に出來てゐる。著者は誰某の弟子で、誰某の家の學であるかといふことがよく注意されてゐる。又大體に於て時代精神といふやうなことも考へられてゐる。即ち書名は古くとも、六國の時に出來たものは、六國の時の作と斷じ、著者の傳が明かでないものは、誰某と時を同じくすると云ひ、大體、時代により思想に精神のあること、家學の繼續により流派の生ずることを、縱横に注意して、目録の下に皆注をしてゐる。その極めて疑はしいものは疑を存しておき、人の名を借りて出した本は依託といふことを明言し、いよいよ作者も時代も分らぬものは、作者を知らず、時代を知らずと書いてある。又目録の書き方として、一人の著者の本が一つに纏まつてゐても、一方は兵書、一方は諸子に入るべきものあるときは兩方に書いた。これによつても六略は單に書籍の簿録でなく、著述の源流を論ずるものであることが分る。かかることは、單に書名を簿録するやうな簡單な意味ではできることではなく、あらゆる本を皆讀み、學問の組織系統の全體を知つた人でなければできないことである。目録學が著述の總論たるはこの點にある。この點は二劉が目録を作るのに極めて進んだ例を示したので、この後、彼等ほどの知識もなく頭もない人が作つても、この手本があるので、比較的によく出來、精神の貫通した目録が出來てゐる。これは二劉の支那の學問上に於ける大なる功績である。

       七略と漢書藝文志との異同

 漢書藝文志を讀むのに、細かい點で注意すべきことは、七略との關係である。班固はこれについて、出・入・省・加・續といふことを考へた。入とは二劉の時に無かつたものを班固の時に加へたものである。又時には分類法の意見の相違によつて直した例があり、これには一方には出、一方には入として編入替へをするのである。これらによつて七略と藝文志との相違の點がよく分る。又省は七略にあつたものを省いたものであるが、省いても、もとあつた本の名前を殘したので、全然抹殺したのではない。加は或る一書が前に出來上つてゐたのに後人が附加したもの、續は二劉から班固までの間に後人が書きついだものである。かかることについては、孫徳謙などの特殊な研究家が出來て、七略と藝文志との異同を明かにするに至つた。もつとも、これらの研究により、藝文志・七略・別録に關するあらゆる疑問が解けた譯ではない。孫徳謙が漢書藝文志擧例を書いたとき、王國維がその跋文を書き、まだ解決の出來ない問題を數條擧げてゐる。その中には、今日解決の出來るものもあるが、この研究は將來も行ふ必要あるもので、支那古代の學問の總括された状態を見るに最も肝要なものであり、支那の學問の續く限りはいつまでも必要である。

       六朝に於ける四部分類法

 劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が七略を作り、漢書藝文志が之に據つてから、書籍を七部に分類することは、六朝の中頃、梁の頃まで繼續した。もつとも梁頃までの間に、同じく七部でも、その内容は段々變化して行つた。さうしてその間に支那後世の書籍の分け方即ち四部に分ける方法が現はれて來てゐる。この四部に分けることは、三國の魏の時より始まり、魏より梁までは、四部と七部の分類法は、色々混雜してまだ一定しない時代であつた。隋書經籍志に至つて始めて四部の分け方に一定して、その後は支那の目録はすべて四部の分け方になつた。
 この四部分類法の擡頭したのは魏の時代と推測されるのであるが、隋書經籍志によれば、それは魏の祕書郎鄭默に始まつてゐるらしい。實は鄭默が果して四部に分けたかどうかは判然しないのであるが、彼の作つた書籍目録に中經といふのがあり、晉の荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が之に對して中經新簿を作り、これは四部に分けたとあるから、中經も四部に分けられてゐたのであらうと推測するだけである。但しこの頃の四部は、隋書經籍志以後のものに比べて差違がある。中經新簿は、甲乙丙丁に分けてはゐるが、その内容は
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甲部 六藝及小學等書
乙部 古諸子家・近世子家・兵書・兵家・術數
丙部 史記・舊事・皇覽簿・雜事
丁部 詩賦[#「詩賦」は底本では「詩譜」]・圖讚・汲冢書
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といふ分け方である。これで見ると、甲部は藝文志の六藝略に當り、乙部では、古諸子は諸子略に當り、近世子家は漢以後晉までに著述されたものであり、兵書と兵家とに分けたのは、兵書は兵家の如く一家言をなしたものでなくして、普通の軍事に關したものを云ひ、術數は藝文志の數術であるが、恐らく方技を含むのであらう。丙部の史記は一般の歴史の書籍、舊事は歴史に類するが主として故事を集めたもの(掌故)、皇覽簿・雜事は後世の類書に當る。この四部では、乙が諸子部、丙が史部であるが、後世の四部では、乙が史部、丙が子部となつた。なほ後世では類書は子部に入つた。丁部では、詩賦は藝文志の詩賦略に當るが、その外色々のものを寄せ集めた。汲冢書は、荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が目録を作る頃に始めて發見されたもので、荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]は目録を作る時に、汲冢の竹書――汲郡の塚から竹書紀年・穆天子傳などの書が出た。但し今日のものはもとの形ではない――を特別に丁部の末に附載したものの如くである。荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]は當時の物識りであつた張華とともに、この目録の整理をしたが、大體は劉向の別録により、錯亂せるを整理し、汲冢書を加へて作つたといふ。このことは文選の中の王文憲集序の李善注に見えてゐる。
 その後、四部の目録を採用したものに、梁の任※[#「日+方」、第3水準1−85−13]・殷鈞の二人で作つた四部目録があると云はれ、この時、書籍が文徳殿に集められたので、四部目録の外に文徳殿目録を作つたといふが、その四部の分け方は傳はらない。ただその術數の書だけは別に一部としたので、梁の目録は五部になつたと云はれるから、この四部は荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]の四部とは多少異つたものである。

       簿録に墮した四部分類法

 かく書籍を四部に分けることは、魏晉の間に始まつたが、これは恐らくその内容の意味から分類されたのではないであらう。大體荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が中經を作つた時、「但録題及言」又「至於作者之意、無所論辯」と云はれ、この目録はただ表題と内容の一部とを書いたもので、別録・七略の如く作者の意にまで立ち至つて論辯したのでないことが分る。それ故、この目録は、眞に書籍の出來る由來を考へて分類したのではなくして、單に置き場所の都合によつて四部に分けたものの如くである。このことは又次に述べる如き他の證據からも推測される。今日では、漢書藝文志より隋書經籍志までの間には、書籍の目録として詳細に書名を書きあげたものは殘つてゐないが、その間にあつて、目録學にとつて非常に大切なことを書いたものが一つある。それは梁の時の處士阮孝緒の七録である。その全文は今日散佚して殘つてゐないが、ただその序だけが佛教の文集なる廣弘明集の中に載つてゐる。今日では六朝の間の目録學の書としては、これがよほど大事なものである。これによると、四部の目録がすでに荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]の時より出來てゐるが、それは重要なものとは認められずに、やはり書籍の分類法としては、七部の分け方が採用されてゐるので、この時分の四部目録は、單に所謂簿録の上の分け方であつて、二劉の如く、目録學として成立した分類法でないことが知られる。
 ともかくこの七録の序は、目録學の歴史を知る上には大切なもので、隋書經籍志で不明なことも、これで分ることがある。四部の目録の中、乙と丙とを取り換へ、乙を歴史部、丙を諸子部にしたことが、晉の李充より始まることも七録の序に見える。この李充の目録は、勿論四部に分けることは荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]によつたが、乙丙を取り換へ、又漢書藝文志の如く、その部類に對して名前を附けることもこの時にやめ、單に甲乙丙丁で區分をした。つまりこの時分は、漸く目録の學問が衰へ、單に簿録を主として、内容を評論することはなくなつてゐたらしい。

       七部分類法の復興――王儉の七志

 内容を評論し、内容によつて書籍を分類する目録學の復興する傾きのある時は、常に七部の分類法に歸るのである。阮孝緒以前に、宋に王儉があり、目録を作つて七志と云つた。これは、前の荀※[#「
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