子の天下篇などには、源流をいくらか書いてゐる。向の時にもすでにかかる考はあり得るので、今日の藝文志にある源流も、向より出たことと想像するのである。
(十三)究得失 荀子の非十二子、太史公の六家要指の如く、學術の得失を擧げて論ずるもので、別録の中にも見えてゐるから、向自身が之を行つたことは確かである。
(十四)撮指意 大意の摘要を作ることである。これも今日殘存せる別録の殘篇に屡※[#二の字点、1−2−22]見えてゐる。
(十五)撰序録 向の別録は即ちこれである。別録の録とは、その本の解題にも批評にもなるもので、即ち序録のことである。これは一つの本に一つづつ附けたのであるが、それを纏めて一つの本にしたのが別録である。他人の作つた本に解題批評を書くことは向に始まる。自らの本に序録を書くことは、これ以前にもある。莊子の天下篇、呂氏春秋の序意、淮南子の要略、史記の太史公自序などがさうである。これらは自己の本又は自己の學派の本を纏めた時に作つたものであるが、向は他人の書を整理する時に作つたのである。これは他人の本に序文を書く起源になつた。
(十六)辨疑似 今日の漢書藝文志に、何の書は誰某の作る所に似たり、といふのがある。この「似たり」といふことは、皆向が書いたのかどうか分らぬが、他の本、例へば禮記の中の雜記の正義に、別録を引いて、「王度記似齊宣王時淳于※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]等所説也」とあり、又漢書藝文志の神農二十篇の處の顏師古の注に、別録を引いて「疑李※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]及商君所説」とあり、これはまだ向の別録の亡びない當時に見た人の云ふところであるが、之より推せば、今日の藝文志の「似たり」といふのも、向の説をそのまま取つたのであらう。これは藝文志の中に色々あり、本の名が古くても、書いた時代は新らしいことを考へたのである。神農といふ古い名があつても、戰國の時の説を書いたものと考へ、黄帝何々といふ書を六國の時のものと斷じたのもこれである。これらは批評判斷で、向の目録學に評論の意を含んでゐることが明かである。
(十七)準經義 向の序録を見ると、例へば戰國策の評論などに、戰國の時の人が、色々その國の爲め策略をするに、道に外れたといふことを云つてゐる。その道は、孔子の經書の義理をもととして論じてゐるのである。
(十八)徴史傳 現在殘つてゐる管子・晏子・荀子の序録を見ると、各※[#二の字点、1−2−22]その人の傳をあげ、著述になるまでの由來を述べてゐる。これが徴史傳の意である。
(十九)闢舊説 傳記などに就て、昔の説の謬れるを訂正したのである。※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]析子の序録に、その傳説の謬れることを辯駁してゐる。
(二十)増佚文 今日の晏子春秋などに、從來その書に無かつた筈のことが入つてゐるのは、向が色々の本を比較校正した時に増したのであらうといふ。
(二十一)攷師承 道統傳授の次第を考へたものである。荀子の序録の中に、荀子から學問を受けた人々のことを書き、如何にしてその學問が傳はつたかを書いてゐる。その他の本でも、その人の學問の筋道の如何樣に後世に傳はつたかを書いた。これは向の學問が源流を敍づる學であるため、自然ここに注意し、これが別録にあらはれたのである。
(二十二)紀圖卷 從來、宋の鄭樵などは、目録を作るに圖譜の大切なることを論じ、向が目録を作るとき、圖を取り入れなかつたのは缺點であると云つたが、これは必ずしもさうでなく、圖のあるものは圖をも合せて録したに相違ない。殊に向の自著なる列女傳は、圖を書き、その讚の如くにして本を作つたのであるから、他の書を調べる際にも、圖を除く筈はない、と孫徳謙は云つてゐる。
(二十三)存別義 これは本の名前が色々あつたりした時、その別の名前をも併せて擧げる。又同じ事柄につき、異つた話が傳はつて居れば、之をも併せて擧げることである。
 孫徳謙は以上の項目を擧げてゐるが、これは勿論もつと簡單に總括することもできる。この中には、劉向以前に始まつたこともあり、向以後に始まつたこともあり、これが悉く向の目録學にあるとは云へぬが、大體かやうに見ても大した違ひはない。この中で、どれが最も大事なことかと云へば、(九)分部類より(十六)辨疑似までが、最も目録學上の特殊なもので、殊に前からあつても、少くとも向に至つて始めて完成したものである。かくの如く、當時あつた學問を總括的に考へ、經書を中心には考へたが、その他の學問も皆古來系統があり、色々の學派が分れて著述のできたことを、即ち學問著述の成生を歴史的に考へたのが向の特色である。

       漢書藝文志に遺る二劉の學の究明

 劉向の仕事を※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が相續したが、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の書いた解題は、向のものよりも殘つてゐない。今日殘つてゐるのは、ただ上山海經表だけである。大體に於て向の書き方に似てゐるが、この一篇で見ると、いくらか向よりも學問の仕方が雜駁になつてゐるやうに感ぜられる。ともかく、この二代の仕事は、二十餘年間繼續し、その中、大部分は向がしたので、※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]一人で關係したのは僅か一二年である。それ故、全體からは向の仕事と云つてよい。いよいよ完成したのは哀帝の建平年間で、今日の山海經にも、建平元年に校正した奧書きやうのものが、第十三篇の末に附けられてある。もしこの二代の仕事が、全部殘つて居れば大したものであるが、今日では、その極めて省略されたものが、漢書藝文志に殘つてゐるだけである。元來向の別録は二十卷あつたと云はれる。それを※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が省略して七略としたのであるが、七略が一略一卷づつで七卷である。それが漢書藝文志になる時に、餘程節略せられた。しかし幸ひにこの藝文志があるために、殊に班固が之を漢書に取入れるとき、本の目録を増減したり、部類を移したりしたことについては、皆そのことを斷わつてあるので、ともかく七略としての大體は分る。班固の手を入れなかつた前の大體も分る。
 それ故、後の人は藝文志の研究をするのであるが、この藝文志の研究は、隨分古くから始まつて居り、唐の顏師古が漢書の注を書いたときに、すでに當時まだ存在してゐた別録並びに七略によつて、その簡略に過ぎた處をいくらか補つてあるので、之によつて又別録・七略より藝文志に移つて行つた樣子が分る。南宋時代に及んで、鄭樵は藝文志を基礎として所謂目録學、校讐學の大體の輪廓を立てて見た。從來目録を書く人は、皆暗に別録・七略以來の趣意を繼承してゐても、如何なる點が特に目録學として注意されたかを論じたものは無かつたが、鄭樵に至つて始めてその趣意を調べ出すことになつた。南宋の終りに、王應麟が藝文志の研究を始めたが、ただこれは、全體の趣意について論ずるのではなく、藝文志に載せられてゐて、今日なくなつた本について研究をしたのである。とにかく、この頃より以後、藝文志の研究が盛になり、清朝に入つて、章學誠は校讐通義を作つて、詳しい研究評論をするに至つた。今日の支那に於けるこの方面の學者は、皆章學誠の系統を引いてゐる。孫徳謙は漢書藝文志擧例を作り、藝文志の作り方につき、その例を擧げて、特別に注意された點を明かにしてゐる。

       二劉(漢書藝文志)の分類法、著述の史的分類

 大體、今日の藝文志、即ち別録・七略を經て來たこの本は、目録そのものが、單なる簿録ではなしに、それ自身が一つの著述の體をなしてゐる。前述の如く、大體はあらゆる書籍を六部に分類し、その六部の各※[#二の字点、1−2−22]に更に細目即ち子目を作つた。
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一、六藝略  易・書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學・六藝總論
二、諸子略  儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縱横家・雜家・農家・小説家・諸子總論
三、詩賦略  賦三[#「三」は小書き、右上寄せ]・雜賦・歌詩・詩賦總論
四、兵書略  兵權謀・兵形勢・陰陽・兵技巧・兵書總論
五、數術略  天文・暦譜・五行・蓍龜・雜占・形法・數術總論
六、方技略  醫經・經方・房中・神仙・方技總論
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この中、詩賦略の子目には總論がないが、その他の子目には各※[#二の字点、1−2−22]總論が附せられてゐる。まづこの子目につき書名を擧げ、その一種類毎にそれを總括した文章があり、一略が終れば更に一略全體の總論がある。この時代としては、よほど本の分類の仕方もよく出來、却て後世、本を四部に分けたのより學問的でよい處がある。そしてその一つ一つの書目を擧げるについても、皆相當の意味がある。藝文志は七略を簡單にしたに相違ないが、その必要な目録の書法は、もとのままを守つたらしい。
 その中で注意すべきことは、全體の總論的なこととしては、書籍の歴史的な排列法、分類法の取られてゐることである。それは本の出來た時代の順に書くといふことではない。歴史的なりといふ意味は、大體、本の出來て來る由來から分類の仕方を考へたことである。經書を六藝その他に分けるのは勿論、最も骨を折つたのは、諸子略の儒家以下九流について書いたことである。勿論六藝でも、易は如何にして出來たか、書は昔如何なる種類のものがそれらに纏まつたかといふ風に由來を説いてゐるが、殊に九流では、九流が悉く昔の官師から出たことを説いてゐる。例へば、儒家は司徒の官に出づ、道家は史官に出づとあり、その外、陰陽家は羲和の官(天文の官)に出で、法家は理官(裁判官)に出で、名家は禮官(禮儀を司る。名と實とを合致せしむるを職とす)に出づといふやうに、すべて昔の官職に歸することを論じてゐる。かくの如く學問を歴史的に考へるのが二劉の學の特色である。その他の詩賦略以下も皆由來をたづねたが、殊に九流については、由來の外に長短得失を論じてゐる。その見方は、九流が皆官師から出たから、初めは皆社會組織の必要から出た職務であつたが、それが漸く一家の説を作り出した。そして或る時代には、九流百家が各※[#二の字点、1−2−22]その長所を盛に鼓吹し、己れ一家の學さへあれば、他の學問はなくとも國家を治め得べしと考へたが、根本は皆六藝略に載せられた六家の支と流裔とであると考へ、その各※[#二の字点、1−2−22]の一派のものが、その自己の説を誇張するにつけて、その説の偏つた處をむやみに大きくして行き、そこから弊害ができ、各家の主張するやうな九流の著述が出來たといふのである。もと國家の機關であつた時には衝突はなかつたが、各※[#二の字点、1−2−22]極端に自説を張るに至つた爲め、各説相衝突するに至つたのであるとの考へである。これは勿論九流各家より云へば承服すべからざる議論であつて、二劉の説は、儒學、六藝を中心としてあらゆるものを歴史的に見るところからかくなつたのである。二劉の考へでは、儒學を中心にし、六藝を中心にするのは獨斷ではなく、すべての書籍を歴史的に見るところから來てゐる。即ちもろもろの書籍の中で、六藝の書のみは、古のものをそのまま傳へてゐるので、歴史的に考へて誤りなく、手を入れずに傳へられてゐるが、九流の書は、各※[#二の字点、1−2−22]の説を主張する爲めに、その材料を誇張變形して傳へてゐる。但し六藝の書に失はれたことも、九流の書に殘つてゐるものがあるから、この點を取れば役に立つといふ意見である。大體諸子略だけは六略中特別なもので、その他はすべて昔のものがそのまま傳へられたものである。

       二劉の學と司馬遷の史學

 これは、ともかく、その當時までに支那に出來てゐた本を總括して考へたものであるが、この漢代までの支那の學問を總括して考へたものに、二通りの種類がある。一は司馬遷の史記で、一は二劉の學である。司馬遷の史記も、當時までのあらゆる本を總括して考へてゐるが、その考へ方は、司馬遷の場合は、例へば九流諸子の書、六藝の書に據つて書いても、そ
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