方にも却て面白いものがあるが、支那文化の正統としては著録された本が正統と定めたのである。當時の學問が、どの程度までを必要としたかが分る。かくて四庫提要は清朝の文化を代表する一大産物である。この中に流れてゐる目録學上の主義を拔き出せば、かなり興味のあることであらう。序論だけを集めて出版されたものもある。
天禄琳琅書目
この時代の目録學は、一方に四庫提要の代表する、學問の源流と現在の學問の總知識を知るためのものがあり、他方には珍書の目録もあつた。乾隆帝は天禄琳琅書目を作つたが、これは朝廷の珍本の傳來等を書き、讀書敏求記を一層精細にしたやうなもので、藏書家の系圖を重んじ、藏書印なども寫してある。それは學問としては校勘學に必要なものである。普通の目録學は四庫提要で、校勘學は天禄琳琅書目で代表させた。この後者と同じ種類のものは、近時まで夥しく出來てゐる。
章學誠の校讐通義――支那目録學の大成
乾隆の頃に章學誠が校讐通義を著はした。これは支那の目録學を眞に學問として考へたものである。校讐通義は三卷より成るが、その中の第一卷が最も主要なものである。これには先づ書籍に目録のない時分からのことを理論的に考へた。最初は學問は官の職務に附いたもので、官職の關係上、教へる人があり學ぶ人があつても、私の著述はない。私の著述がなければ、書籍は單に官職に從つて保存されるだけで、書籍を一箇所に纏めて目録を作る方法がない筈である。この目録の學といふものは、一家の著述といふものが出來るやうになつてからのことである。それは官が職を失つて、各※[#二の字点、1−2−22]一家の學問になつたところから、色々の派の學問に區別が生じ、根本の經書は經書、各※[#二の字点、1−2−22]分れた諸子百家は諸子百家といふ風に分れるところから目録の必要が出て來る。劉向・劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]、殊に※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が七略を作つたといふのは、即ちそのあらゆる書籍の流別を調べる上から出て來た。そして七略が後に段々四部になつて來たが、これも自然の勢であつて、四部になつたものを、もとの七略に復すことは出來ない。この復されぬ理由として、歴史の部が大變數が多くなつたこと、諸子が段々古いものが衰へたこと、文集が盛になつて來て、それは諸子の如く學派を區別することが出來なくなつたこと、書籍を拔き書きする一種の本が出來て、それを何の部類に屬してよいか分らなくなつたこと、詩文を評點することが起つて、文集の中でも別集とも總集ともつかないものになつて來たこと、かかることから自然七略の法が復興出來なくなつた。しかし七略の法が復興出來なくなり、又著述にえたいの知れぬものが出來ることは、著述の段々惡くなる證據である。それ故、現に四部の法で目録を作つても、四部の中で流別を調べて、昔の學問が官職から出た學問の根本に溯るやうにし、學派の區別を明かにすることが必要であると云ひ、今日四部の區別で分類の仕方が粗雜になつてゐるが、その中に、本の内容を考へるともつと精密な區別が出來ることを論じてゐる。この人は必ずしも書籍を七略の昔に復さうとはせず、やはり支那の學問が昔より學派の區別が明かでなくなつて來た現在の状態に從ひ、四部に分けることは已むを得ないとし、その中で内容を調べることを主張してゐる。
この目録を作るに内容を主とする意味から――目録は單に簿録でないことから――一つの本でも、その内容の幾通りにも見られるものは、その各部各部に重複して名を出すべきであると論じ、これを互著と云つてゐる。同じ本を一箇所以上に載せられぬといふ考へは、目録を單に書籍の帳面として考へるからのことであり、著述の内容・趣意から考へれば、同じ本が何箇所に出てもよい筈で、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略はかかるやり方であつた。それを漢書藝文志に班固が載せた時に皆省いた。これは藝文志に明かに載つてゐることで、省いた本は省いたと書いてある。それで章學誠は、もとの七略は同じ本も内容により何箇所にも載せたと考へ、これこそ眞の學術の流別を重んずる目録學の法なりとした。
互著の法については、鄭樵の目録の作り方をも攻撃してゐる。鄭樵が劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以來絶えてゐた目録學を興したことは大いに重んじてゐるが、樵の目録學は未だ十分に※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の目録學の本旨を得ないとし、その例として、樵が金石略・圖譜略の如きものを古來始めて作つて居りながら、藝文略の中には石經を載せてあつて、金石略の中には石經を全然載せてゐない。これが※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の互著の法を知らないからであると云つてゐる。この書籍の分類に一本を何箇所にも出すことは、例へば歴史を作る時、人の爲めに傳を作ると同じであつて、傳の内容即ち義類が重いので名目が重いのではない。史記・漢書の列傳の法としては、一人の人でもその事件が兩方に關係してゐる時は、詳略して兩方に載せる。例へば史記で、子貢は一方は仲尼弟子の傳にもあるが、一方は貨殖傳にも載つてゐる。又儒林傳に出てゐる董仲舒などは、この外又その人の特別の傳もある。これは事柄の方が重いので人名が重いのではない。書籍の目録を作るも之と同樣で、内容が重いのであつて本の名が重いのではないと云つてゐる。
互著の外に、別裁といふことも論じた。これはある本の中から一部分を取り出して、之を別の本として目録に掲げることである。それは管子の中に弟子職なる篇があるが、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略では管子は大體道家に入つてゐるが、弟子職は切り離されて小學の部に入つてゐる。これは昔の人の著述には、必ずしも自分が書いたのではなく、昔からあるものをそのまま取り入れた部分があり、弟子職は管子の書いたものではない。又呂氏春秋の最初に月令が載つてゐるが、これも呂不韋自身の書いたものではない。それは別に切り離して、その適當な部類に入れて差支ないといふ議論である。
又、辨嫌名といふことを論じてゐる。別裁の方は、一定の主義があつて一つの本を二つ以上の部類に入れることを論じたが、辨嫌名は、主義がなくして同じ本を二箇所以上に入れることの不都合を論じた。これは漢書藝文志以後には、分類に主義がなくなつたので、重複して著録されたものは大部分は義類に關係がなく、全く編纂の誤りに過ぎない。これははつきり辨別して一つに歸着せしむるが當然である。かかる嫌名を辨ずる方法としては、韻に從つて書籍を分ける署名目録を作り、各書の下に本の由來を書き、いよいよ分類するときに、その韻に從つて尋ねるがよいと云つてゐる。つまり今で云へば五十音順のカードによつて整理するといふやり方である。
補鄭、これは鄭樵の議論を補ふのである。鄭樵の議論に、本の名が亡び、實は亡びぬといふことがある。これは卓説であるが、樵はその應用に粗雜な點がある。内容をよく吟味せず、ただ書名だけによつて、名が亡び實が亡びないといふ説をなすと、大きな間違ひが生ずると云ひ、そして王應麟などのやつた、なくなつた本の内容目録を作ることの必要を主張してゐる。王應麟がかかるものを作つたのが、目録學を内容から見ることについて役に立つたことを論じてゐる。又鄭樵が、書籍の前になかつたものが後に揃ふことのあるのを論じたのに對しても、これも單に卷數から見て後世の卷數が多いから本が揃つてゐると見ることの非を論じてゐる。
又、校讐條理といふことを論じ、鄭樵が書籍を搜す官を派遣すること及び書籍を校讐する人が長くその任に居る必要を論じたのは、校讐の要義を得てゐる。しかし書籍の搜し方の善不善を更に考へねばならぬ。それは求書は一時のことであるが、治書は平日から必要のあることである。然るに樵は求書の方法を論じてゐるが、治書の方を論じてゐない。不斷から治書の法を考へて、現在の書籍に如何なる處に缺陷があるかを知つて居れば、求書の時にも適當な求め方が出來る。不斷からある本ない本を皆目録に記しておき、又民間で書籍のことについて必要なことを發明したものは、それを官に申し立てれば、そのことを官の記録に留めて、搜す便宜の備へにする。又かく書籍の内容を調べることになると、世を毒する不都合な本の隱れてゐる餘地をなくすることも出來る。各地方でこの法を行ひ、各地方の本の目録を作つておけば、中央で書籍を搜す時にすぐ出て來るので、ことさらに搜す必要がない。中央の本と地方の本と互に照らし合はすと、次第に本が正確になる。それで藏書を全國的に考へ、全國の行政區劃に從つて、皆各※[#二の字点、1−2−22]相當の役目を持つやうに藏書政策を考へ、これを治書の法と云つた。これはやはり劉向が本を調べる時にもあつたことで、中書があり外書があり、外書にも又色々な役所の本、個人の藏書があり、之を集めて向が校訂したが、今日でもかく各方面に藏書のあることは大切なことであるとしてゐる。
又治書の法として、索引を作ることを論じてゐる。即ちあらゆる書籍につき、その中から人名・地名・官職・書目、何でも一切名目で調べることの出來るものを擇んで、佩文韻府のやうに韻によつて編し、本韻の下に原書の出處・卷數を書き、一度出てゐることでも二度出てゐることでも數千百囘出てゐることでも皆書いて索引(群書の總類)を作る。これを作ると、書籍を校讐する時に、疑はしいもののある時、韻によつて探す。これによれば博學の人が一生かかることも、中等の能力の人で居ながらに出來る。索引は最良の校讐法であると云つてゐる。
又、書籍を校讐する時、同じもので違つた文のある時は、原文と違つた文と兩方を書くこと、又漢書藝文志は七略を取つて直したが、その直したことを注に斷わつてあるから、七略の體裁の大體は今日でも分ることを云つてゐる。
次に本のなくなつたもの、缺けてゐるものの目録を書く必要をも論じてゐる。ただ時として彼にも誤りがあり、缺けた本を論ずる時、舊唐書經籍志に唐の時の主もな人の詩文が載つてゐないが、これは當時の遺漏ではなく、經籍志のもとになつた本が載せなかつたのであらうと云つてゐる。これは誤りではないが、舊唐書經籍志は天寶以後の人のものは經籍志に載せず、著者の本傳に載せることを斷わつてあるのを忘れたものである。
最後に藏書といふ議論がある。これは今日、往々普通の藏書にはなくなつてゐる儒教の方の本が、道藏・釋藏の中に殘つてゐるのがある。これは道藏・釋藏には、本を一つに纏めて藏とする藏書の法が備はつてゐた爲めである。普通の漢籍は一箇所に纏める法がないから散逸する。道藏は多く道觀に、釋藏は大抵は寺にしまつてある。漢籍も尼山泗水の間(曲阜)に一大圖書館を作つて藏しておけば、帝室の本が時になくなつても、それで缺を補へるとて、民間に大圖書館を作る必要を論じた。
以上が彼の校讐學の大體である。その他は漢書藝文志につき論じ、鄭樵が漢書藝文志につき論ぜることを論じ、又焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の漢書藝文志につき論ぜることを論じ、又七略の中の六略の分類につき一一論じてある。ともかく目録學をこの人の學問の流儀として、歴史的に根本から學問として組立てることを考へた。支那風の目録學は彼に至つて大成した。
章學誠の祖述者
章學誠の學問は、久しく祖述する人がなかつたが、現存の人で之を祖述するものに張爾田と孫徳謙の二人がある。張爾田には史微の著があり、孫徳謙には諸子通考(未完)・漢書藝文志擧例・劉向校讐學纂微の著がある。しかしこの二人は章學誠の如く、一種の學問の組立てを自己に持ち、すべての學問に歴史的根據を與へ、目録學にも歴史的根據を與へて、それから分類の法を考へる根本の思想には十分觸れてゐない點もある。
底本:「内藤湖南全集 第十二卷」筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日初版発行
1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
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