、即ち竹簡に書くことである。昔の説では、殺青とは竹を書物になるやうに簡にして書くことであるが、新しい竹には油があり蟲がつき易いので、火の上で炙つて乾かして油を去り、それを削つて書くことであるといはれる。繕寫すべしといふのは、當時新たに行はれて來た素に上せること、即ち白い絹に書くことであると云はれる。
 ともかく、藝文志を見ると、當時五百九十六家の書があり、一萬三千二百六十九卷といふ卷數であるが、之を劉向が總裁して、これに一一精密なる校正録と解題とを作つて上つたのである。ただこの劉向の時に、之を總論するものが既に出來たかどうかは分らない。一一の本については、その著述の由來、その趣意、その長所短所を詳しく論じてあるが、それらの總論として全體に渉つて論じたものが出來たかどうか分らない。その中に向は死に、子の※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が天子より命ぜられ、相續して行ふこととなつた。

       劉向の別録の佚文とその體裁

 劉向の別録の中で、今日まで幾らか滿足に殘つてゐるのは、戰國策・管子・晏子・荀子・韓非子・列子・※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]析子のもの
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