32]からして既に儒家中心の考へ方で、藝文志もその意を受けてゐるが――孔子が沒くなつて時がたつと、孔子の學問の中に、又幾多の派が出來た。これは單に韓非子の顯學篇などに云ふところの派のみならず、孔子の殘した經書について、幾通りかそれを傳へる家が分れたことを云つてゐる。かかることのある間に、秦が天下を併せて、書籍を燒くといふことが起り、そこで漢になつて大いに書籍を集めたが、武帝の時代までに色々集まつた書籍には、缺本が多かつた。その爲めに、書籍を集めるための官を設けたことが書いてあるが、これは劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の説によると、その集める場所は、宮廷の内と外とに分れ、外の方には太常・太史・博士、内の方には廷閣・廣内・祕室に藏書の場所を設けた。そして諸方より書籍を獻納する路を開き、獻じたものには賞を與へることになつてゐた。又書籍を寫す官を置いて本を集めたので、色々の本が多數に集まつたが、成帝の時までに、それらの本が又散亡する傾きがあつたので、更に集めることになり、陳農に命じて天下に書を求めしめた。この時、劉向が書籍の校正係りを命ぜられた。向は經傳・諸子・詩賦に關するものを
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