編年によつて記事を書く方法が盛に行はれるに至つた。元來、傳といふのは、經を解釋する意味であるが、單に解釋に止まらず、詳しい記事を書くことになつた。この體は後世盛に行はれ、隋史に所謂古史家である。(隋史では、紀傳體を正史とし、編年體を古史とす。)國語家とは、國別に書く歴史である。戰國策もこの流儀の歴史であり、その後、支那の國が分裂する毎に、この體裁の歴史が屡々用ひられたが、次第に史記・漢書の體裁が盛になるにつれて、國語家の體裁は衰へたと云つてゐる。史記家と漢書家とは、共に紀傳體の歴史であるが、史記の方は通史で、漢書は斷代史である。これが兩者の間の相違である。大體漢書が出來てからは、正史は斷代史の體裁になつたが、時々は通史の體裁で歴史を書いた人もあり、劉知幾はむしろ正史は斷代史をよしとしたが、後になると、歴史は通史でなければならぬといふ論も起つた。ともかくこの二つの區別あることを認めたのは劉知幾である。大體以上の如く六家に分けたが、これは歴史を作る人の主義より云へば、かかる分ち方も必要であるが、現存せる書籍の分類としては不便であるから、――勿論劉氏は目録學のために考へたのではないが――他に
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