り、史部が大きくなり、經書から離れて獨立したのであつて、史學の學問の上からは退歩である。殊に著しいのは、術數の部の子目の數の減つて行くことで、これは專門の學術の退歩をよく表はしてゐる。もつともその中には、天文・暦算の如く進歩しつつあるものもあり、又專門の學とても雜占・卜筮の如く進歩しても役に立たないものもある。ともかくだんだん書籍の種類が減じ、文集の如きものが殖え、人が目的なしに書いたものが著述となる傾きがある。史部と文集との増加は、かかる書籍の増加を意味してゐる。

       抱朴子遐覽篇の道經目

 なほ仙道録に關聯して一言して置くことは、これより以前に、晉の葛洪の抱朴子の内篇に遐覽篇があり、それに晉頃までに出來た道經の目録が載せられてゐる。その何の本が七録でいふ四つの種類に當るか明かでないが、その中の諸符といふものが七録の符圖の部に當るものであることが分る。この符の類は、抱朴子にも卷數・種類が書いてあるから、計算すれば分るであらう。大體より見て、抱朴子の符録の種類は、七録・隋志よりも多いことは明かである。ともかく、七録とか隋志とかの仙道部の參考になるものとして知るべきである。
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