たかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。
 かくて司馬遷と二劉との考へは大分異る點がある。司馬遷は史記の一家の學を以て全體の本を總括せんとしたから、自ら春秋の意を取り、之に繼いで作ると考へてゐるが、六藝全體は殆ど之を總括して、六藝の正統の書として史記を作つたと考へてゐる。二劉より見れば、史記は春秋に繼いで作つた本で、六藝略に入るべき一書に過ぎぬ。司馬遷から云へば、二劉のしたことは枝葉のこととなり、二劉よりすれば、枝葉の全體を總括するのが學問であり、史記もその一部分といふことになる。司馬遷は史記を作つて學問を總括したと考へ、史學を學問全體の總論と考へたが、それより百年もたつた後の二劉は、史學の獨立を認めず、六略にも史學はない。これは當時史書の數が至つて少かつた爲めもあらうが、根本は見方の相違である。司馬遷が史學を創立したのは、過去の事實を總括したのみではなく、將來の學問を暗示したものであるが、二劉は過去の學問を總括することを以
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