ついては、皆そのことを斷わつてあるので、ともかく七略としての大體は分る。班固の手を入れなかつた前の大體も分る。
それ故、後の人は藝文志の研究をするのであるが、この藝文志の研究は、隨分古くから始まつて居り、唐の顏師古が漢書の注を書いたときに、すでに當時まだ存在してゐた別録並びに七略によつて、その簡略に過ぎた處をいくらか補つてあるので、之によつて又別録・七略より藝文志に移つて行つた樣子が分る。南宋時代に及んで、鄭樵は藝文志を基礎として所謂目録學、校讐學の大體の輪廓を立てて見た。從來目録を書く人は、皆暗に別録・七略以來の趣意を繼承してゐても、如何なる點が特に目録學として注意されたかを論じたものは無かつたが、鄭樵に至つて始めてその趣意を調べ出すことになつた。南宋の終りに、王應麟が藝文志の研究を始めたが、ただこれは、全體の趣意について論ずるのではなく、藝文志に載せられてゐて、今日なくなつた本について研究をしたのである。とにかく、この頃より以後、藝文志の研究が盛になり、清朝に入つて、章學誠は校讐通義を作つて、詳しい研究評論をするに至つた。今日の支那に於けるこの方面の學者は、皆章學誠の系統を引いて
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