四部に分けることは、魏晉の間に始まつたが、これは恐らくその内容の意味から分類されたのではないであらう。大體荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が中經を作つた時、「但録題及言」又「至於作者之意、無所論辯」と云はれ、この目録はただ表題と内容の一部とを書いたもので、別録・七略の如く作者の意にまで立ち至つて論辯したのでないことが分る。それ故、この目録は、眞に書籍の出來る由來を考へて分類したのではなくして、單に置き場所の都合によつて四部に分けたものの如くである。このことは又次に述べる如き他の證據からも推測される。今日では、漢書藝文志より隋書經籍志までの間には、書籍の目録として詳細に書名を書きあげたものは殘つてゐないが、その間にあつて、目録學にとつて非常に大切なことを書いたものが一つある。それは梁の時の處士阮孝緒の七録である。その全文は今日散佚して殘つてゐないが、ただその序だけが佛教の文集なる廣弘明集の中に載つてゐる。今日では六朝の間の目録學の書としては、これがよほど大事なものである。これによると、四部の目録がすでに荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]の時より出來てゐるが、それは重要なものとは認められずに、やはり書籍の分類法としては、七部の分け方が採用されてゐるので、この時分の四部目録は、單に所謂簿録の上の分け方であつて、二劉の如く、目録學として成立した分類法でないことが知られる。
ともかくこの七録の序は、目録學の歴史を知る上には大切なもので、隋書經籍志で不明なことも、これで分ることがある。四部の目録の中、乙と丙とを取り換へ、乙を歴史部、丙を諸子部にしたことが、晉の李充より始まることも七録の序に見える。この李充の目録は、勿論四部に分けることは荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]によつたが、乙丙を取り換へ、又漢書藝文志の如く、その部類に對して名前を附けることもこの時にやめ、單に甲乙丙丁で區分をした。つまりこの時分は、漸く目録の學問が衰へ、單に簿録を主として、内容を評論することはなくなつてゐたらしい。
七部分類法の復興――王儉の七志
内容を評論し、内容によつて書籍を分類する目録學の復興する傾きのある時は、常に七部の分類法に歸るのである。阮孝緒以前に、宋に王儉があり、目録を作つて七志と云つた。これは、前の荀※[#「
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