られてゐたのであらうと推測するだけである。但しこの頃の四部は、隋書經籍志以後のものに比べて差違がある。中經新簿は、甲乙丙丁に分けてはゐるが、その内容は
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甲部 六藝及小學等書
乙部 古諸子家・近世子家・兵書・兵家・術數
丙部 史記・舊事・皇覽簿・雜事
丁部 詩賦[#「詩賦」は底本では「詩譜」]・圖讚・汲冢書
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といふ分け方である。これで見ると、甲部は藝文志の六藝略に當り、乙部では、古諸子は諸子略に當り、近世子家は漢以後晉までに著述されたものであり、兵書と兵家とに分けたのは、兵書は兵家の如く一家言をなしたものでなくして、普通の軍事に關したものを云ひ、術數は藝文志の數術であるが、恐らく方技を含むのであらう。丙部の史記は一般の歴史の書籍、舊事は歴史に類するが主として故事を集めたもの(掌故)、皇覽簿・雜事は後世の類書に當る。この四部では、乙が諸子部、丙が史部であるが、後世の四部では、乙が史部、丙が子部となつた。なほ後世では類書は子部に入つた。丁部では、詩賦は藝文志の詩賦略に當るが、その外色々のものを寄せ集めた。汲冢書は、荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が目録を作る頃に始めて發見されたもので、荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]は目録を作る時に、汲冢の竹書――汲郡の塚から竹書紀年・穆天子傳などの書が出た。但し今日のものはもとの形ではない――を特別に丁部の末に附載したものの如くである。荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]は當時の物識りであつた張華とともに、この目録の整理をしたが、大體は劉向の別録により、錯亂せるを整理し、汲冢書を加へて作つたといふ。このことは文選の中の王文憲集序の李善注に見えてゐる。
その後、四部の目録を採用したものに、梁の任※[#「日+方」、第3水準1−85−13]・殷鈞の二人で作つた四部目録があると云はれ、この時、書籍が文徳殿に集められたので、四部目録の外に文徳殿目録を作つたといふが、その四部の分け方は傳はらない。ただその術數の書だけは別に一部としたので、梁の目録は五部になつたと云はれるから、この四部は荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]の四部とは多少異つたものである。
簿録に墮した四部分類法
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