ら、史通の説が正しいやうである。かくの如く、ともかく定本を作る際に、名前をも變へたことがあるのである。
(六)謹編次 劉向が編次を謹んだことは、戰國策を編次した時のことを書いてゐるのでも分る。元來この書は國別けになつてゐて、時代の順序はなかつたのであらう。それを向が時代順に編成し變へたのである。又晏子の編成の仕方を見ると、その中、道理の正しいもので、晏子の書全體を通じて筋道の立つたものを集めて、これを内篇とし、その外、晏子の言ではなく、後人の傅會と思はれるが、ともかく晏子の中にあつたものを別の部類として一括してある。かく色々に部類分けをしたのも向の一つの仕事である。この部類分けは、又目録學に關係することで、向などは管子を道家に入れ、晏子を儒家に入れたが、――或は管子はもと法家に入れたといふ説がある――かく何家何家といふ風に分けることは、つまり目録を分類する人の見識であり、目録の學としては、之を最も重しとする。今日ある本でも、どうかすると編次の誤まつてゐるらしいものがある。例へば韓非子であるが、韓非子は韓の國の公子で、韓を立てる考のあつたことは明かであり、韓非子の中に存韓篇があるが、今日の韓非子の最初にある初見秦篇には、秦に勸めて韓を滅ぼさせる意を書いてある。かかることは有り得べからざることである。第一、初見秦篇には、彼の死後のことまであつて怪しいところがある。戰國策では、秦に韓を滅ぼさせようとしたのは張儀の語とされてゐる。これが誤つて韓非子に入つたのであるが、これは果して劉向が知つてしたのか、それとも後人がしたのかは分らないが、ともかく今日殘つてゐる本には、なほ編次の誤まつてゐるものもある。
(七)析内外 内外とは、莊子に内篇外篇あり、晏子に内外篇あるが如きである。或人はこの内外を劉向の謂ふ所の中外書と同じく、天子の手許の本と、それ以外の本とのことであらうと云つてゐるが、これは必ずしもさうとは云はれぬ。やはり本の中の意味によつて内篇外篇に分つたものらしい。晏子の内外篇の如きは明かにこの意である。
(八)待刊改 向の序録を見ると、前述のやうに、多くは「定以殺青、書可繕寫」の語がある。初めに定本を竹で作り、それが出來た上で、これを素(白い絹)に書くのが繕寫である。竹であれば誤つても削つて書き直しが出來るが、絹ではそれができぬからであると云はれる。向は色々の本を校正した經
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