れらを總稱して「中外書」と云つてゐる。これらの本を校正した工合を見ると、劉向の見る以前までは、管子なら管子にしても、篇數の多いのもあり、少いのもあり、色々であつたが、向は之を寄せ集めて、重複したものを除き、重複しないものを殘して、一つの定本を作つたことが分る。
(二)訂脱誤 これは今日の漢書藝文志などにも明かに見えてゐるところで、藝文志には、劉向が尚書を校正したとき、本によつては脱文があり、又文字の異つたものが多かつたが、それを校正するのに、最も主もなる善い本として、中古文(天子の手許の本で、當時行はれた隸書でなく、篆書以前の文字を以て書いた本)に據つたことが書いてある。この脱誤を訂したことに就ては、劉向自身の書いた文、即ち戰國策を校正した時の序録にも、本字が多くは誤脱して、往々字が半分になつてゐることがある、趙が肖になり、齊が立になつてゐるといふことを書いてゐる。しかしこれは今日より見れば、必ずしも脱誤とは云へぬこともある。何故なれば、戰國頃には、文字を簡單に書くことが行はれ、趙を肖と書くことなどはよく行はれた。今日殘つてゐる古※[#「金+木」、377−2](印)を見ると、趙は皆肖となつて居り、つまり通用の俗字であつたのであらう。しかし劉向の頃より、俗字を正しい古文の文字に復さうとする學問的傾向があつたらしく、彼は一一これを直したのである。ともかく戰國策にかういふことが斷わつてある爲めに、古※[#「金+木」、377−4]の中にある肖の字が趙と同じ字であることを知り得る。
この校正といふことは、非常に古くより起り、劉向以前から既にかういふことは起つてゐたと思はれる。孔子家語――劉向以後の僞作と云はれ、確かな本とは云はれないが――の中に、孔子の弟子の子夏が、歴史を讀んでゐるものが「晉師伐秦三豕渡河」といふ文句を讀んでゐるのを聞き、三豕は己亥の誤りであると注意したといふことが書いてあるが、その眞僞はともかくとして、支那人は古くから校正に意を用ひたらしい。公羊傳の中にも、やはり文字の誤りがあるのを、孔子が直接に見た事により今の本の誤りを正したといふことがある。劉向に至つて、校正を大仕掛にやり、色々の本の誤りを正した。校正のことを校讐といふことも、別録に見え、向が始めて云つたのであると云はれる。一人が本を讀み、一人がそれに對し別の本を持ち、引合せてゐる形が、怨のあるものが
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