ととなつた。その頃、王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]などは野史を信ぜず、朝廷の掌故に重きを置く學風を始めた。勿論野史にも掌故はあるが、それは正確なことよりも面白い話を殘さうとするものであり、掌故は面白くなくても正確なものを殘さうとするのである。この一つの移り變りが支那史學に影響した。新唐書や通鑑が歴史事實を活動させるために材料を野史に取り、それが當時の歴史の編纂の標準となつて以來、その風が盛で、明代の野史はその末流であつて、歴史が多少新聞の如くに流れた傾きがあり、それを王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]等が一變せしめたのである。これはその後、清朝に及んで明史を編纂する時に、之に關する議論があり、明史は掌故の學を基礎として書いたが、その時の議論は明史稿の凡例の中に出てゐる。殊に建文帝のことが議論の中心となり、明史では建文帝のことについて野史を承認しない。これが已に宋以來の史學に對する一つの變化であるが、その時又特別の事情から、歴史が正確な史料によるべきであるとの議論が出で、史料をその儘載せるべきであるとの説が出た。これは新唐書・舊唐書
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