支那には起居注の官があるが、これは何時頃から出來たか分らぬけれども、司馬晉の時には既にある。これは三代以來の史官の法が遺つてゐるのであると稱し、天子の言行を直ちに記録する官で、低い官であるが、天子の座席の下に立つて天子の言行を見聞のままに記す。而して天子から拘束されぬことが古くよりの慣例になつてゐる。元來はその官職は天子の言行でも自由に批判する役に居る人が兼ねて居つたのである。これは六朝より唐までの貴族政治のおかげで、當時は天子でも必ずしも萬能でなく、天子の言行でも自由に批評するを得たことからも多少來てゐる。唐になると、これは天子に不利であると考へるに至り、唐の太宗は起居注を見たいと云つたが、諫議大夫朱子奢は、天子は起居注を見る必要はない、これを見る風が生ずると、凡庸な君主は細工をするやうになり、史官の直筆が出來なくなると云つた。太宗は※[#「ころもへん+睹のつくり」、第3水準1−91−82]遂良が諫議大夫で起居注を司つて居つた時にも、起居注を見ることが出來るかと問うたが、やはり見るものでないといふ答であつた。後に唐の文宗はこれを見たといふ説がある。それが宋になると、大いに變つて、起居
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