る紀行その他の記事の書が大部出來て、それが今日その地方の事實を知る上に役立つ。その記事は明代又は清代では荒唐不稽のやうに考へられてゐた。永樂の時に太監(宦官)の鄭和がその地方へ派遣されたが、そのことが、三保太監下西洋として芝居の題目になり、小説にもなつたが、それを見ると、まるで西遊記などの如く荒唐のことがあるが、その實際の事實は確實なことで、今から十四五年前にセイロン島で鄭和の碑が發見され、それには鄭和が佛堂に金を寄附したことが、漢文とタミール語とアラビア語とで記されて居つて、立派な證據を提供してゐる。
 大體明代の史學は、一つは宋元以來の由來もあるが、明の中頃以前は野史時代と云つてもよく、民間の野史が大いに流行した。その中には眞僞混淆したものがある。明初には色々朝廷に祕密のことがあつた。永樂帝が甥の建文帝に代つて位を簒つたが、建文帝が行方不明であつた爲め、之に關する野史が多く出來た。その外にも、宋以來の官吏の風で、己れの見聞を記録するものが多く、それを材料とした野史がある。それが中葉以後には、野史と朝廷の記録と何れを主として取るかといふ議論が起り、これが支那近代に於ける史學の變化のもととなつた。その頃、王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]などは野史を信ぜず、朝廷の掌故に重きを置く學風を始めた。勿論野史にも掌故はあるが、それは正確なことよりも面白い話を殘さうとするものであり、掌故は面白くなくても正確なものを殘さうとするのである。この一つの移り變りが支那史學に影響した。新唐書や通鑑が歴史事實を活動させるために材料を野史に取り、それが當時の歴史の編纂の標準となつて以來、その風が盛で、明代の野史はその末流であつて、歴史が多少新聞の如くに流れた傾きがあり、それを王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]等が一變せしめたのである。これはその後、清朝に及んで明史を編纂する時に、之に關する議論があり、明史は掌故の學を基礎として書いたが、その時の議論は明史稿の凡例の中に出てゐる。殊に建文帝のことが議論の中心となり、明史では建文帝のことについて野史を承認しない。これが已に宋以來の史學に對する一つの變化であるが、その時又特別の事情から、歴史が正確な史料によるべきであるとの議論が出で、史料をその儘載せるべきであるとの説が出た。これは新唐書・舊唐書
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