を中心としてかかる議論が起つた。明の中頃に楊愼がこの二書を比較して、舊唐書の正確なことを指摘した。その後、明末清初の顧炎武は尤も舊唐書を信用した人である。これは單に新唐書と舊唐書との問題に止まらず、歴史はなるべく史料をその儘書いた方がよいかどうかといふ議論になり、ともかく史料をその儘書いた方がよいといふのが明史の出來る頃までの論である。
 明末に不思議な人が出た。それは李贄(卓吾)である。王陽明の派の人であるが、當時その學風や行ひが普通と變つてゐた爲め、信者もあるが、反對者も多く、終りをよくしなかつた。大體は禪學のやうで、史學のみならず、支那歴代の風俗習慣を破壞する議論を考へた。則ち昔から孔子を道徳の標準とする理由に對して疑問を出し、いつまでも孔子を標準とする理なしとし、その考へで歴史を書いた。その書を藏書といふ。この書は事實の穿鑿には役に立たぬが、ただ總論だけを讀めばよい。それによると、從來は春秋が史法の根本となつてゐるが、それは孔子が作つたからである。しかしそれがいつまでも理想である譯はないとて、之を根本より覆し、人物の評などにも新しい見方をした。支那人にとつては過激な議論で、人を驚かした。焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]は彼の味方をした。當時焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]は博學な人で、世人の信用があつた爲め、それが李贄が世の信用を得るに力があつた。しかし李贄の説も、當時には殆んど大きな影響を及ぼすには至らなかつた。顧炎武などは彼に大反對であつた。かくて彼の著述は一時世から葬られたが、最近民國になつて、彼の信者が出來て來た。
 焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]のしたことには、後世の手本となつたことがある。彼は目録學にも一見識をもち、國史經籍志を書き、これは古く日本でも飜刻せられた。又掌故の學に關しても、彼は王世貞と多少方法を異にし、王世貞のは制度文物に關するが、彼は傳記に關した事實を集めた。清朝になつてその眞似をした著述が多く出た。
 なほ明末で注意すべきは、沿革地理の學が出たことであり、學問として名著がある譯ではないが、地圖の作り方に、古代と現代とを對照し、朱と墨とで分けて作ることを考へた。王光魯の閲史約書がそれである。清朝になつて、その風の沿革地圖が多く出來た。
 清朝の初めの史學は、全く明末遺老
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