文の方では、次で考古圖・博古圖などが出來、金石殊に碑文に重きを置いたものには趙明誠の金石録が出來た。南宋になつても金文の方の考證の書は澤山出來た。かかることは經學並びに史學に役立つた。後に清朝に起つた金石學の基礎は、大體ここに開けた。
 その他、史學の進歩に功のあつたのは目録學である。これを學問として取扱つたのは鄭樵である。彼は通志の中に校讐略を書いたが、これは全く目録を學問として扱つたものである。彼の書いた藝文略は、校讐略の原則によつて書いた。目録學は當時直ちに史學に役立つたのではないが、鄭樵がかかる學を起したことが、後になつて目録學を史學に役立たせるに至つた元である。
 これらは宋代の史學の大體であるが、宋末より元初にかけて注目すべきものは王應麟の玉海と馬端臨の文獻通考とである。これらのものは、初めから史學の爲めに書いたものではないが、その結果が史學のために役立つに至つた。元來唐から宋にかけて、天子の爲めに詔勅を書く官があり、内制・外制といふ。これを書く官は多く故事を知る必要がある。それで唐代から多くそれに對する類書が出來てゐる。宋になると之を辭學又は詞學と稱した。玉海は大體この辭學のために出來たのである。王應麟の學問は色々の點で後の清朝の學問の本になつたが、この人は辭學をやるに就て、それが色々の點に及び、目録學に於ても一つの特別な方法を考へた。即ち昔の目録に載つてゐて現存せぬ本に就て、或る點までその本を復活して、その本の大體が分るやうにする方法を考へた。それは多くの古書の中よりその本に關する事柄を抽出し、それによつてその原本の大體を知り得るやうにするものであるが、この方法は清朝の學問に大いなる關係がある。又單に本の内容を窺ふのみならず、その本の出來た由來又はその本に關する昔の批評等を集めることもした。元來の目的は辭學の爲めであつたが、その結果は史學のためになるやうに出來上つたのである。
 文獻通考は王應麟の玉海が詞學のために作られたのに對して、當時の策學のために出來た。策學といふのは、王安石が科擧の法を一變して、試驗の中に論策を書かせることにしてより、古今の政治その他の沿革を知る必要があり、馬端臨の前にも既に策學の爲めに書いた本があり、馬氏のも大體通典を學んでそれが策學に役立つやうに書いたものであるが、その出來榮はやはり單に策學の爲めの目的より遙かによく出來て
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