歴史が甚だ多い。勿論この外にも通鑑の影響はある。それは一つは通鑑の編纂方法が與へた影響であり、その外、通鑑の編纂の出來上つた上に、それに附屬の著述の出來たことである。第一に通鑑の編纂方法が手本となつたことは、長編を作ることである。歴史を編纂する前に先づ長編を作るのはよい方法である。これはあらゆる材料を年代を逐うて書き拔き、一年毎に總括して列べる。それを凡そ目的の長さに書き約める。これは今日の大日本史料もこの長編の方法を取つてゐる。支那にも、これ以後、長編だけを作つて纏めぬ書も澤山出來た。その他に材料取捨の方針は、通鑑はやはり新唐書と同じく小説を取つた處があり、その爲めに結果として失敗した處などもあるが、これは當時の一般の風で、史記を手本とした古文がはやるところから、通鑑も小説を材料に取つたのである。それから通鑑の附屬の書として作られたものに目録・考異などがある。通鑑は長い年數に亙る歴史であるから、索引がなければ見出しに困難である。目録は大體、年表であるが、索引の用をするやうに出來てゐる。考異といふのは、通鑑は多くの材料を取つた故、材料の取捨を明かにせぬと疑を生ずるので、その取捨の理由を書いた。かかることは、自分の歴史を書くと共に、材料の取扱ひを重んじたのであつて、眞に學問として歴史を取扱ふ上の大進歩である。單に帝王のために歴史を書くのならばこんな必要はないが、編纂に關係した人が立派な學者であつた爲め、後世の手本となるやうなことを殘したのである。
 通鑑が出來てより、通鑑に書かれてゐる時代より以前の事を記した書、以後の事を記した書や、通鑑又は長編の體裁で書いた書等、通鑑の影響で出來た書が多く、宋代の史學を進歩せしめた。中でも南宋の袁樞の通鑑紀事本末は著しいものである。通鑑は編年であるから、何年も繼續することを別々に切つて書いてあつて不便であるので、事件の連續を主として書いたのがこの通鑑紀事本末であつて、通鑑の中の記事を拔き取つて事件により纏めた。これが後に支那では歴史の體として大切なものになり、從來は紀傳と編年の二體であつたが、紀事本末を加へて三體となつた。袁樞は單に拔き書きをして便利にする爲めにしたので、大した考があつたのではないが、その結果は大きく、歴史の中で最も便利な最も進歩した體裁が出來たのであると支那の史論家は評してゐる。
 通鑑が編年體で通史を書いた影響と
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