注の記事を編した上、天子に一度見せてから著作の官に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すことになつた。その爲めに起居注の書いたものが直筆でなくなる傾きとなつた。その結果却つて野史・小説の方に信用を置かねばならぬ傾向を生じた。この起居注の官の方法は、朝鮮では稍や正確に殘つたが、二百年程前に、黨派の爭の爲めに從來の歴史を全部書きかへたから、今日殘つてゐるものは信用が出來ぬ。とにかく宋以後、君主專制となるとともに、歴史の書き方が變つたのである。
 新唐書は史體に變化を與へたが、更に又一つ大變化を與へたのは司馬光の資治通鑑である。元來この書は、天子が世を治める參考の爲めに書いたもので、この時、天子の爲めに書く歴史が、從來のそれと一變した。宋代には、眞宗の時に歴史に關する大きな類書册府元龜が出來た。これは勿論天子が歴史の事實を知る爲めに書いたもので、あらゆる史實を類別して書いた。これは事實を見るには便利であるが、事實を並べただけで、著述者の精神は入つて居らぬ。今日では史料を見る上で非常に有益なものとなつてゐるが、當時は全く天子の備忘録のために出來たものである。通鑑は單なる備忘録ではなく、一面より云へば通史の復興である。從來史記が出來てからは、編年體の歴史は流行せず、隋書經籍志に之を古史と稱してゐるのは、史記以前の左傳の體裁であるといふ意である。もつともその間にも通史はない譯ではなく、現存しないけれども梁の武帝は通史を作らせたと云ふ。紀傳體の歴史でも、志の類には往々にして通史の體を遺してゐるものがある。例へば沈約の宋書の志は後漢以後のことを通じて書いてゐる。又隋書の志は元來は五代史志と云つたもので、北朝では北齊・北周・隋、南朝では梁・陳に亙り、それらを通じて編したので、通史の體に出來てゐるが、歴史全體を通史の體で書くことは絶えてゐた。これを通鑑が復興し、上は戰國より五代までを編年體で編し、その間に時勢の沿革、君主の心得べきことを書いた。單に事柄を知る爲めではなく、歴史上の治亂興亡を知らせる爲めで、帝王學の變化である。帝王は事柄を知るよりも、治亂興亡の状態を知るべきであるとするのである。つまり君主專制時代になると、なるべく君主が偉大なる聖賢に近い人たることを要求するところより、かかるものが出て來たのである。
 これは時の歴史學に大影響を與へ、この後に通鑑の體によつて書かれた
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