には、四六文で形式的に出來た材料は、書きかへぬと活動せぬ。殊に役所の文章は四六文であるから、之を材料に用ひては活動せぬ。それよりも野史・小説の類で傳聞の類を材料に取り入れることを考へた。これは今日で云へば、一方は官報、一方は新聞記事を材料とするやうなものである。これが歴史を書く意味の一大變化である。舊唐書までは官府の記録を材料としたが、新唐書からは野史・小説を材料に入れた。
それと同時に、新唐書・新五代史は春秋の筆法を用ひた。新唐書はまだそれ程でもなく、直筆によつて春秋の意を取る位であるが、新五代史になると、一字一字にも意味をもたせて、やかましく區別し、春秋に似た方法を取ることになつた。そのために、新五代史には、その當時に已に注が出來たが、その注は多くはその筆法を解するために出來たものである。とにかく新唐書が出來て以後、大體その方法は、近代に明史が出來るまで、ずつとそのまま行はれて來たと云つてよい。
その他一方に於て、歴史の材料の變形されることの已むを得ないこともある。支那の歴史は、天子を中心として、その周圍のことを書くのが主なる仕事であるが、このことが唐以後非常に不完全になつた。支那には起居注の官があるが、これは何時頃から出來たか分らぬけれども、司馬晉の時には既にある。これは三代以來の史官の法が遺つてゐるのであると稱し、天子の言行を直ちに記録する官で、低い官であるが、天子の座席の下に立つて天子の言行を見聞のままに記す。而して天子から拘束されぬことが古くよりの慣例になつてゐる。元來はその官職は天子の言行でも自由に批判する役に居る人が兼ねて居つたのである。これは六朝より唐までの貴族政治のおかげで、當時は天子でも必ずしも萬能でなく、天子の言行でも自由に批評するを得たことからも多少來てゐる。唐になると、これは天子に不利であると考へるに至り、唐の太宗は起居注を見たいと云つたが、諫議大夫朱子奢は、天子は起居注を見る必要はない、これを見る風が生ずると、凡庸な君主は細工をするやうになり、史官の直筆が出來なくなると云つた。太宗は※[#「ころもへん+睹のつくり」、第3水準1−91−82]遂良が諫議大夫で起居注を司つて居つた時にも、起居注を見ることが出來るかと問うたが、やはり見るものでないといふ答であつた。後に唐の文宗はこれを見たといふ説がある。それが宋になると、大いに變つて、起居
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