とし、合はぬ處を否定すると云ふ樣な譯で、斯る研究法はどちらかと云へば、漢代の王充が著した論衡などに比してさへも常識を缺いて居る。論衡の説には、經書は久しく缺けて、その佚文が諸子百家に出て居る。故に諸子を以て經書の缺漏を補ふと云つてあるが、今から考へて見れば、實は經書と云ふ者を順次に晩出の書からして、上代にまで遡つて調べた上、割合に竄亂のない本に根據して、更に一段と舊い處を研究して行く方法を取るでなければ、確實に信憑すべき定論に達することが出來ないのである。古書の竄亂の箇所は、晩出の書によりて判斷することが出來るものである。かういふ考へ方からかりに研究の順序をまとめて述べて見れば、先づ劉向父子の遺著、漢藝文志、それから揚雄の法言、方言、王充の論衡と云ふ樣な、即ち前漢末、後漢初の著述を一の標準として、其の以前の古書がどこまで其の標準よりも古い實質を保存して居るか、又どこまで竄亂があるかと云ふことを一應判斷し、それから今一歩進んで、史記を中心として、同時代の董仲舒、それから今少し前の淮南子、賈誼新書とか云ふ者、即ち秦火の厄に罹つた後、古書が始めて世に出でた時、間もなく著述されたあらゆる本を標
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