準として、その以前の本をしらべ、その竄亂の程度を知り、更に遡つて呂子春秋の如き戰國の著述に及ぶのである。呂子春秋は、その頃の百家の學者を集めて作つたものであるが、之を中心として韓非子、それから今少し上の荀子と云ふ樣な者、更に一段上の孟子、墨子と云ふ樣な者、その前後に關係ある管子、晏子春秋、國語、國策と云ふ樣な本によりて、更にその以前の古書を判斷し、それで始めて多少なりとも戰國の頃まで存在した經典の如何なる者たるかゞ解るのである。
其れ以上の經典の實體を知らんと欲せば、金文による外ないが、金文はその遺物の眞贋を判斷する爲に茲に一の困難に遭遇する。けれどもその金文と遺物の研究とが相俟つて、次第に歩を進めつゝあることは、近年に於いて著しい傾向である。概略を云ふならば、今日まで現はれた金文の確實なものから推して周初、成王康王當時のものと、西周末夷※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]宣幽時代のものとは確然たる區別がある。即ち成康時代のものは、今日の尚書の周書に類し、西周末のものは詩に類して居る。で、この標準を以て研究すれば、經書の最古最大なる二つ丈は、精細な研究が出來るのである。
併し其れ丈で滿足することが出來ぬ。即ち前にも云つた如く、殷墟の遺物を標準として、古書の解剖に從事して、漸く支那文化の根原がおぼろげながら明かになるのである。殷墟の遺物によりて、虞夏書又は洪範などの眞僞竄亂を調べて見たならば、必ず發明する所が多い筈である。
若し一層遡つた時代、即ち殷墟以上の古蹟が發見されたならば、一層信憑するに足る文化史の源泉を繹ねることが出來て、支那研究は一層進歩するであらう。今殷墟の遺物で見れば、その多くは石器、骨器の類であるが、多少銅器が出て居る、それ故支那の文化史はいまだ銅器時代から以上を見ることが出來ないが、此際銅器の全く出ない古蹟が發見さるれば、支那文化の起源が幾千年前にあるか、或は何時代に當るかを研究し得るのであるが、遺憾ながら未だ發見されない。けれども、何處かにさう云ふ古蹟の存在することは疑ふべからざる所で、其の場所も大體どの地方と云ふことが解つて居るから、何時かは發掘しうることゝ信ずる。
又この外に新しい舊い神話傳説を含んだものを研究する必要がある。たとへば詩、楚辭、山海經と云ふ樣な者、それ等のものが主となり、それによりて緯書その他の研究が、古典學に貢
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