、其の總評の仕方は、今日の目から見ると、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が本の由來を論じ、得失を論じた如く徹底した考はありませぬ。しかし漢の時に目録を作つて、隋までの間に種々變つて居る、それ等のことを總評に於て大體現はして居る。それ等のことは隋書經籍志に於て遺つて居るのであります。隋書經籍志を作る時に、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]に及ばなかつたのは、一々の本に就いて批評が無かつた點であります。それは大事業であつて、なか/\えらいことでありますが、それが出來なかつた。これだけでも、隋書經籍志は、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略に較ぶれば墮落をして居るのであります。
 それで其の次に出來て來たのは舊唐書の經籍志であります。尤も其の間にもう一つ入れゝば入れられるものがあります。それは日本に遺つて居る日本國現在書目録であります。これは日本にある本とは申しながら、悉く支那の本であつて、冷然院といふ皇室の藏書所が燒けて、さうして又本を集めるといふことになつた時に、藤氏の南家の儒者の佐世《すけよ》と申す人が作つたといふことであります。これには總評も序論も何もありませぬ。けれども兎に角、本の目録を列べたものとしては、隋書の經籍志と舊唐書の經籍志の間に入るものであります。これは有益なものでありまして、古いものを調べる時には引出されるものであります。しかしこれは唯だ日本に其の當時あります本を、支那風の目録にして書いたといふだけでありまして、これには著述の意味は無いといふことであります。其の次に出來て來た舊唐書の經籍志になると、一つの墮落を來しましたのは、それは各部類に対する評論がなくなりました。これは勿論其の編輯をする人の力量に依りますことで、隋書の經籍志を書きました時は、まだ/″\唐の初めに有名な學者が居りまして、隋書の諸志類といふものは、隋書の志とは申しますものゝ、漢書の志の以後を書かうといふつもりで、五代の志類を集めたのであります。それ位でありますから、すぐれた學者達があつて、有名な魏徴なども關係して居ります。又特別の事に就ては、特別の知識を有つた人がやつて居ります。暦術に就ては、李淳風といふ當時の暦法家が關係して居ります。所が舊唐書の時になりますと、編纂をする人の力量は遙かに隋書の時に及びませぬ。それで段々書物の聚散して來た由來を書いたゞけで、何の評もありませぬ。しかしまだ舊唐書の經籍志に取り所のありますのは、舊唐書は唐一代の歴史でありますが、その經籍志は、玄宗皇帝の開元年間に政府の庫にしまつて居つた本だけの目録であります。それが大變善い所であります。其の當時庫にこれだけの本が現存して居つたといふことが明かに分る目録であります。それが目録の活きて居る所でありますが、もう既に評を書くといふことは無論出來ませぬ。恐らく開元の時から二百年も經つて書いた本でありますから、其の時にあつた本でも、もはや見ることが出來ないやうな譯でもありましたのでせう。開元より以前百年ばかりの間の本が載つて居るので、其の以後のものは載つて居りませぬ。それは缺點でありますが、しかし開元の時に書庫に現存して居つたものであります。それが同じ唐書でも新唐書になると、更に墮落しております。新唐書の藝文志は、今日でも珍重されるものでありますが、信用の出來ぬ點がある。それは開元までの間は、舊唐書の目録に依つて書いた。それが五萬幾千卷の書目であります。それは開元の目録に依つて書きました。其の以後更に二萬何千卷の書物を載せた。それは何處の書庫にあつたといふことでもなし、又目録を書いた人が見たといふでもなし、唯だ誰の著述があつたといふ事柄によつて書いた。それで新唐書の目録は、本の數の列んで居る所から見ると、都合がよく出來て居りますが、しかし出來上つたものは、それは何れの時に何れの場所にそれがあつたかといふことが確かまらない目録であります。何の證據にもならぬ目録であります。あとの二萬何千卷は、實物を見ずに勝手に加へたものであります。さうして見ると、唯だ唐の時にこんな著述があつたといふ噂の記録であるだけで、果してそれが行はれて居つたかどうかは分りませぬ。これは目録を作る上に於て非常な失敗であります。
 其の後になりますと、益※[#二の字点、1−2−22]さういふ傾きがありますが、尤も其の前にも多少さういふことが無いではありませぬ。阮孝緒といふ學者が作つた目録は、これは官の目録ではありませぬ、私の目録でありますから、其の時の記録に依つて作つたものに過ぎないのでありますが、正史に載せてある目録としては、舊唐書の經籍志までは、兎に角何れかの時に、何れかの處にあつたものに依つて書いたのであります。それは隋書の經籍志でもさうであります。けれどもそれは隋の時にあつた目録ではなくして、唐の時に現存したものを目録として書いたのであります。必ず何處かに現存したものを書くのが法則であるが、新唐書に至つてそれを崩して、必ずしも現存してないものを目録に書きました。これは非常な墮落であります。さういふことは、すべて古い目録より新らしい目録の方がぞんざいになつて居ります。
 其の後、益※[#二の字点、1−2−22]目録の作り方が惡くなりました。それは宋史の藝文志、明史の藝文志、これは皆あることはありますが、これも亦何れの時に何れの處に現存したといふことの證據がない。其の中、宋史の藝文志には、各部目の序論といふものがない。明史の藝文志に至つて、目録は又一變して斷代の目録となりました。即ち明代の人だけの著述の目録である。それも所在も存否も確かめずに、唯だ何かに書いてあるものを其の儘載せた。明史の藝文志は黄虞稷の千頃堂書目に據つたといはれて居るが、それは編纂の事實がさうでも、主義はさうでない。即ち現存の本の目録ではなくして、聞き傳への目録である。これが目録を作る上に於て非常に衰へた所以であります。
 これは古代の目録と近代の目録との比較の相違でありますが、書名だけ擧げたものとしては、明の時の文淵閣書目に至つて、復た故に返つて、文淵閣の書庫に現存したものであります。又清朝の四庫全書の目録、皆其の時の現存の目録を擧げて、文淵閣に鈔寫して保存した本、即ち著録本と、名目だけ留めた本、即ち存目本と兩方書いてありますが、兩方とも其の當時、本を集める人は全部目を通したもので、これは全く信用の出來るものであります。宋以後は、實際目を通した目録は、宋の時の朝廷でやつた崇文總目と此の四庫全書の二つのみでありますが、民間の藏書家の目録は段々發達して來ました。それは自分の藏書の目録であるから、皆信ずることの出來るものであります。さういふのは、陳振孫の直齋書録解題とか、或は晁公武の郡齋讀書志とかいふものが其の種類に屬します。要するに明の文淵閣書目と乾隆の四庫全書總目に至つて、現存の書に依つて目録を作るといふことが復興し、又四庫全書總目提要によつて、書物を一々批評するといふ劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以來の廢れて居つた方法を恢復したのであります。清朝の四庫全書總目提要だけは、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以來の立派なる目録と謂つて差支ないのであります。これは勿論内容に立入つて、其の批評の仕方を、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]と同樣の價値を以て見ることが出來るかといふと、これには種々議論があつて、それは或る點は昔のものより勝れて居る所がありませう、又或る點は學問上偏狹になつて居る所があるといふやうなこともありませう。しかし兎に角目録を立派に取扱ふといふ方から申しますれば、清朝の四庫全書總目提要といふものは、昔の目録に立返つて立派なものが出來たと謂つてよい。
 これは大體の變遷でありますが、段々細かいことになると、其の間に又種々變遷があります。それは漢書の藝文志若しくは隋書の經籍志などに、一つの特長がありますのは、亡くなつた本の目録を書くといふことで、漢書の藝文志は、大體書名として亡くなつたものを書いては居りませぬが、其の篇數など内容に就きましては、どの篇が脱けて居るとか、どの篇が遺つて居るとかいふことを現はして居ります。隋書の經籍志に至ると、單に隋代の目録ではなくして、其の前五代の目録を作つたのでありますから、即ち唐の初めには既に亡くなつて居りましても、梁の時の目録にあつたといふものが一々注にそれを書きつけてある。何々の本は梁の目録にあつたが今日は亡くなつた、何々の本は梁の時は何卷であつたが今日は何卷しか遺らないとかいふことが書いてある。これは目録を作る上に於て、一つの大切なる事柄でありまして、これがあるといふと、現在ある本は完全なものか否かといふことが分るのみならず、不完全なものは不完全だといふことを記録して置くと、其の遺つたものがどういふ機會でか現はれ來るべき、其の本を搜す機會を與へるのであります。これは大變に大切なことになつて居りまして、これは隋書經籍志まではありますが、其の以後の目録には無いので、此の點に於ては、其後多少昔の意味を復興しようと考へた人はあります。これは清朝の學者などは、明の代の學者とか本といふと、力めて之を輕んじて見る傾きがありますが、國史經籍志といふ明の萬暦年間に焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]といふ人の書いたものがあります。これは正史の藝文志でも經籍志でもありませぬが、宋以來の目録の作り方と違つた目録、即ち古代風の目録を作りました。それは明の末で分るだけの本の目録を全部作り、それに存佚を皆書きました。これはつまり亡くなつた本の目録を傳へて、之を搜す便りにする方法の或る點を復興したのであります。
 それから其の次には、この分類の性質といふものゝ大切なことを論じて居る人があるのであります。分類の性質によつて昔の本の意味をどういふ風に解釋したかといふことの大切な參考になります。手短かに申せば易であります。易は後世の學者によつて之を解釋されまして、あれは單に卜筮をする爲の本である、或はさうでない、あれは其の中に含まれて居る義理が大變に尊いのであつて、單に卜筮をする爲に出來た本ではないといふ爭論があります。所がこれは漢書の藝文志、即ち劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の分類の法に依つて、當時の人がどういふやうに解釋して居つたかといふことが分るのであります。さういふことは、目録の分類の仕方に依つて利益を得ることがあります。これはやはり古い目録のやり方の大切な所であります。劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の見方に依ると、易はやはりその時代には之を義理の書として考へられて居つたといふことが分ります。それはどういふ譯かといふと、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の中には數術といふ部門がありまして、數術といふ中に占ひの本が載つてある。それは筮竹で占ふことも、又は龜の甲を灼いて占ふことも書いてある。易が單に占ひの本であるとすると、數術の方に入るものである。然るに之を數術の方に入れないで、經書の中に入れてあるのは、卜筮の本として用ひたばかりでなく、中に含まれて居る義理を尊んで居るといふ證據になるものと思はれます。さういふ點は、古い分類の仕方が古い書物の解釋の仕方に影響するのであります。後世になりましては、大分其の分類の大切な意味が失はれました。
 これが先づ古い目録と新らしい目録との大體の比較のお話でありますが、勿論前にも申します通り、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が目録を作りますには、一つの立派な著述としてやつたので、單に編纂した意味でないといふことを申しましたが、よくその意味を考へて行くと、其の時に既に目録學が立派に出來上つて居るのでありますけれども、それが段々支那に於て次第に其の意味が無くなつて墮落して來ました。其の目録の學問を復興した有力な人があります。南宋の時に鄭樵といふ人があります。通志を書いた人で、此
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング