の鄭樵が始めて目録學の復興を圖りました。通志には二十略といふものがありますが、其の中に藝文略といふものがありまして、目録のことが書いてあります。又校讐略といふものがありまして、校合することの理論やら方法やらが書いてあります。これで鄭樵が一家の目録學を著はして居るのでありまして、漢書の藝文志の缺點を論じ、それから北宋の時に出來ました崇文總目といふものゝ得失を論じて居ります。それで漢書の藝文志に対しては、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]のした方法を班固が物が分らずに改變したといふことを頻りに攻撃して居る。兎に角目録の學問に就ては、一家の見識を以ていろ/\の事を考へました。本を集めることから、分類の事、それから分類をするに就て、其の本の目録に小書きの注を書くべきものか書くべからざるものか、解題をすべきものかすべからざるものかといふことを論じて居る。それ等の中には奇拔な論がありまして、今日でも杜撰な解題の本などの弊に中つて居るものがある。例へば百中何々法といふ醫者の本がある。それを解釋して、百中とは病氣が何でも皆治るといふことだなどゝ解釋して居る。そんな解釋はすべからざるものであるといふやうなことを言うて居る。所がどうかすると、今日我邦で行はれて居る解題の本などにも、さういふ解題が折々あります。解題の意味と本の名の意味と重複して、本の名を見れば解題を見なくとも分るものを、強ひて解題して居るものがある。さういふことは、今日の目録の弊にも的中して居る。さういふ點に就ては、此の鄭樵といふ人は頭腦の明敏な人であつたと見えて、今日でも役に立つ説があります。
 其の後、かういふ學問をする人は餘りありませぬ。國史經籍志を書いた明の焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]もさういふ心があつたに相違ないが、鄭樵の如く細かな意見をはつきり現はして書いたものはありませぬ。國史經籍志の末にも校合の記録はあるが、目録學として精細な内容に關係して書いたのはありませぬ。清朝で四庫全書總目を作る時になつて、天下の學者を集めて、有名な紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]といふ人が總裁をして作つたのでありますが、此の時に目録が復興しましたけれども、その學問はまだ興りません。大勢の學者を寄せて編纂をするのでありますから、紀※[#「日+(勹<二)」、第3水準1−85−12]其の人の頭の中には立派な意見がありましたのでせうが、其の總論として目録學を形作るやうな、はつきりした著述は現はれて居りませぬ。その頃明かに目録學の意味を現はして、殆ど一つの學問として認められるやうにしたのは章學誠といふ人で、文史通義といふ本を書きましたが、其の外に校讐通義といふものを書いて居る。この校讐通義は單に三卷の微々たる本でありますが、其の中一卷が校讐の總論であつて、第二卷第三卷は漢書藝文志の評論であります。それから鄭樵の意見を評論し、焦※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]の國史經籍志の意見なども評論して居るが、これが非常に組織的に目録の學問を論じて居る。それで目録の學問といふものは、これは劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の昔やつた法則を復興すればよいものである、鄭樵は種々議論を附けて居るが、未だ至らざる所がある、謂はゞ劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が書物の評論を爲し、得失を論じ、源流を正して、役に立つやうに批評するといふのが、目録の眞意である、其の通りにすれば眞の目録である、其の外は目録にならぬといふ議論であります。しかしそれだからというて、七略の昔に復さうといふのではない、今日の四部の分け方は、どうしても七略の昔に復せぬ理由がある。それで種々其の理由を擧げて居るが、例へば昔は歴史は經書の一部分であつた、所が其の後になつて、歴史の種類が澤山になると、元のやうに經書の一部分に繰り込む譯にいかぬ。其の外、一種妙な鄙俗な記述でありますが、詩文の評などがある。昔は詩文の評というても、皆源流を論じ、成立ちを論じ、さうして得失を論じて居つたものでありますが、後になつて、それ程の大著述をする力もない人が、ほんの頭の上で自分の面白いと思つた所を批評する、例へば僞物でありませうけれども、蘇老泉が批評をした孟子だとかいふものがある、これ等のものは著述といふ程の價値はないが、何か自分の意見を書いたものであるから、之を全く書目の中から取り去る譯にいかぬ。さういふものが既に新たに出來て來る以上は、どうしても昔の七略の法に復す譯にはいかぬ。今日書物の分類を四部にすることは已むを得ないことであつて、必要に應じてやつたのであるから仕方がない。しかしながら其の目録を作る意味だけは、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の昔に復して、さうして其の本の源流を論じ、其の本の得失を論じ、それから何處が亡くなつて居るとか、存在して居るとかいふことを論じてやるべきことで、單に鄭樵のやうに解釋を省いて、書名だけを書いて置けばよいといふやうな議論はいかぬと言つて居る。此の人の議論は勿論鄭樵の議論に刺戟されて出來たのでありますけれども、鄭樵のよりは一段と意見が進歩をしまして、さうして支那の本はどういふやうにして出來上つたか、目録はどういふやうに編纂すべきものであるかといふことまでも根本から論じておりまして、支那の目録に關する意見としては、最も完全に、最も明快なものであります。それで今日に於て支那の目録の學問を知らうといふのには、どうしても此の章學誠の文史通義、殊に校讐通義といふものを讀まなければならぬと思ひます。私がこれまで段々申しました所の大體も、謂はゞ其の全體は校讐通義の敷衍をしたやうなものでありまして、一々特別に自分の考で言つた譯ではありませぬ。しかし何處が章學誠の議論で、何處が私の敷衍した處であるかと言はれると、一寸明かに御答が出來ませぬが、大體私は章學誠の本を平常愛讀して居りまして、常に記憶して居る所に依つて大體お話をいたしました。
 つまり支那の目録といふものは如何に變じたか、昔と今との得失はどういふものであるか、目録學はどういふやうに成立つて居るかといふことを、大體申上げたつもりであります。尤も此の外の支那の目録には、佛教の目録が大部分を占めて居ります。さうして佛教の目録は完全に出來て居る。どの點から見ても搜し出せるやうな方法を取つて居る。書名から引出せる、佛教の本は大部分は飜譯でありますから、飜譯者の方からも引出せる、有らゆる方面から引出せるやうに進歩して居る。これは目録學を離れて、檢索の方から申しますと、開元並びに貞元の釋教録などゝいふものは、大變進歩した方法を取つて居ると思ひます。これに就ては、勿論特別に論ずる價値は十分にあります。しかしながら佛教の目録を論ずるといふことは、手數のかゝることでありまして、私はそれに暗いのであります。今日は私の平生承知して居る事柄に依つて、其の大體を茲に申述べた次第であります。長い間清聽を涜しました。
[#地から1字上げ](大正二年大阪府立圖書館に於て圖書館協會大會講演)



底本:「内藤湖南全集 第十二卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「支那目録學」京都大学東洋史学科特殊講義
   1926(大正15)年4〜6月、未刊
初出:大阪府立図書館における図書館協会大会講演
   1913(大正2)年
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2000年12月26日公開
2006年1月18日修正
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