立して居る。第三は子兵と申しまして、諸子類と兵家と一緒にして居る。これは苦しい分け方で、部類を七つにしたい爲に、かういふやうなことをしたものと思ひますが、一方には軍事上の本、即ち昔の弓を射る法とか、いろ/\兵家の特別專門の知識がなければ分らぬ所のものは無くなつてしまつて、兵家の理論だけに關係した所の、孫子とか呉子とかいふものだけが遺つて、諸子類と變らないやうなものになつたから、それでこれは諸子と一緒に合はせて子兵としたのではなからうかと思はれます。即ち分類を七つにする意味もありませうけれども、本の内容にも變化を生じて來たといふ所が現はれて居ります。第四は文集でありまして、第五は術技になつて居ります。之を内篇と致します。此の五つで昔から六つに分けて居つたのを概括してしまつたのであります。劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が六略に分けて居つたのを、此の五つで概括をした。即ち諸子と兵家とが一緒になつたから斯うなりました。それから外篇を別に作つたが、これは佛教と道教の二つであります。これで七録として居りますが、其の外に、此の人は其の末へもつて行つて、自分が澤山の本を見て、いろ/\拔き書きをしたりなにかした所、自分の考へのある所を附けたものが見えるのであります。しかし今日ではやはり其の自分の意見を書きました所のものは存在して居りませぬ。これが七つに分ける種類の最後の目録であります。此の時までは七つに分けましたが、此の以後は七つに分ける目録は無くなりました。しかし此の時に七つに分けて居るのは、既に前の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]時代の七つの種類とは内容が違つて居つて、大體四部の方に近くなつて居る。内篇の五部に分れて居るのは、梁の時に分けた五部と同じやうな形になつて居つて、それに佛教道教が附いたのでありますから、段々四部の目録に近寄つて來て居る。それでつまり此の部類分けの變遷を申しますと、漢以來六朝までの間に、段々七部の目録からして四部の目録に變りつゝあつたといふことが分ります。これは單に部類分けの仕方の變り方といふばかりではありませぬ。やはり段々本が殖えて來る、その殖え方の意味が其處に現はれて居りまして、どういふ種類の本が殖えて來た爲に、四部に分けなければならぬことになつたかゞ、其の間に現はれて居ります。それ等のことを論じた人もありますが、其のことは後に御紹介するつもりであります。
 兎に角こゝでもつて七部の目録が終りを告げて、其の次に出來た有名な目録は、隋書の經籍志であります。これは今日の歴史に載つて居る目録では、漢書の藝文志に次ぐ第二の古いものであります。これには部類分けの總論もありますし、又一部一部の本の名もあります。これは全く四部に分れて居りますので、四部目録の現在一番古いものは隋書經籍志であります。其の後、目録の分け方は、子目と申します小さい部類には多少變遷がありますが、殆どこれ以來變りはないと云つてよいのであります。
 これが支那書籍目録の分類の仕方の變遷でありますが、此の分類の仕方、分類の仕方とばかり云ふ譯には參りませぬが、兎に角支那に於て古く出來た目録と新しく出來た目録とは、どういふ點が優つて居つて、どういふ點が劣つて居るかと申しますと、先づ漢書の藝文志、即ち今日遺つて居るもので、その元は即ち劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略、これは兎に角非常に立派な出來榮であると云ふのであります。其の後の目録は、現存して居りますものでは、隋書の經籍志、四部に分けました目録、此の目録がどうかかうか之に較べることの出來るだけの出來榮になつておりますが、其の以後の目録は、單に目録の學問が墮落したといふことを現はして居るだけのことであります。つまり六部の目録としては漢書の藝文志、それから四部の目録としては隋書の經籍志、尤も七部の目録は其の外に現存して居るものがありませぬから致し方がありませぬが、恐らく七部の目録も、漢書の藝文志以後は、段々墮落に傾いて居るのであらうと思ひます。それで四部の目録としては、隋書の經籍志が出來榮の絶頂に達して居つて、其の以後は墮落して居ります。
 所でどういふ點が墮落して居るかといふことになりますと、それは最初の目録の作り方、即ち七略の作り方、これは單に書物の目録を列べて檢索の爲に便利にして置くとか、それから唯だ本の名を遺すやうにして置くとか、さういふやうな極めて單純な意味で作つたのではないのであります。劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の目録の作り方は、これは全く一種の大著述であります。一體漢の時代まで、著述をするといふ人は、單に人のものを編纂するといふ意味では書きませぬ。自分に何か特色がなければ決して本を書かぬのであります。或は書いたかも知れませぬが、さういふものは劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が本を調べた時に無くなつてしまつたかも知れませぬが、今日遺つて居るものでは、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以前の本は、何か自分に主義があつて書いたものであります。それで例へば史記といふやうな大部の本でありましても、これは勿論編纂した歴史でありますから、單にこれは古い本を編纂して、自分が文を書き變へでもして、さうして事柄を傳へる爲めにしたのであるかといふに、さういふ譯ではありませぬ。それは劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の分け方に依つても明かに分ります。其の時には歴史はまだ目録の一科目を成して居りませぬ。今日でも漢書藝文志では史記は經書の一部分、即ち春秋の一部分に附いて居る。春秋の系統を追うて書いたものといふ意味であります。さうしてそれを書きました時は、一家言として、自分の一己の主張があつて書いたのであります。あれを見ると、どこそこは戰國策に出て居るとか、どこそこは國語に出て居るとかいふやうなことを纏めて出したやうに見えますが、しかし其の全體の總論としては、太史公の自序といふものを作つて置きました。それから處々自分の編纂の趣意を現はして居ります。五帝本紀といふものを書くと、此の材料はどういふ採り方をした、どういふ種類の材料は信用が出來るといふやうなことを明かに斷わつて居る。尤も骨を折つたのは表と八書でありまして、此等は自分に見識があり、主張があつて、それによつて書いたのであります。それで其の外の本紀とか世家とか列傳とかいふものでも、其の事實を書きました間に、自分の議論をも見はして居りますが、しかしこれ等は多くは編纂の方法に於て趣意を見はして居ります。それでつまり史記全體が自分の一家の著述であつて、單に昔の事實を集めたといふ趣意ではないのであります。あれを書けば、昔の孔子以來の諸子などが本を著はしたと同樣な位置に坐るものであるといふ考で書いたものであります。これは一つの例でありますが、凡ての人が本を書くのに、さういふ意味で書いて居ります。
 しかしこれも言はゞ漢の頃からの一つの變遷でありまして、其の前の本の書き方は少し違ふのであります。其の前の書き方は、必要に應じた自分の職務々々の記録であります。それが段々變遷して、戰亂の爲に官職といふものが無くなると、昔其の官職に在つて、今は職を失つた人が、其の職務の記録を學問として傳へ、段々と相傳する人が其の上に書きつぐといふやり方で、自分が一人で著述をするといふ意味でなく、その學派の相續の爲に本が出來たのでありますが、漢の時には太史公などは、自分の著述として出すやうになりました。これは太史公に始まつたのではありませぬ。莊子とか荀子とかいふものが出來ました時に、已にさういふ傾きがあつて、莊子とか荀子とかいふ本を集める時に、外の學派を批評して、さうして自分の方がえらいのであると云つて著述して居ります。史記を見ると、いろいろのものを集めて一纏めにして自分の一家言を作るのであると云つて居る。これは一種の著述をしたものであると謂つてよい。
 それで劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が目録を作るのも、やはりこれと同樣の意味であります。單に本の名目を列べて、さうしてそれに自分の小書きの注がありますが、小書きの注には、何篇あつたものが何篇遺つて居るとか、何處に脱簡があるとか、或は名目だけ遺つて居つて、本が無くなつて居るとかいふことがありますが、それは現在のものを事實に依つて調べてやつたのであります。其の外、今の漢書の藝文志に依つて見ると、一部類一部類に、例へば經書の中の易の所には易の總論があり、皆それ/″\總論がある。其の總論といふものは、其の書の由つて來る所を詳しく論じて、かういふ種類の著述、道家なり儒家なり兵家なり名家なりといふものは、長所が何處にあつて、短所が何處にあるといふことを、必ず一々批評して居る。それが即ち六略でありますが、其の外に輯略といふ一つの總評がある譯であります。總評といふものはどうなりましたか分りませぬ。しかし六略には皆一つ一つに目録を擧げて、さういふ風な部類分けの總論をして居りますけれども、それを又一部一部の著述にも皆してあるのであります。劉向の書きましたので、現在一部の書物の評論の遺つて居るのは、例へば戰國策とか列子とか晏子春秋とかに遺つて居ります。今申上げました三つのものは、體裁は皆一致しておりますが、最初に本の目録を擧げて、さうしてこれだけのものを調べて校正をして出したといふことを斷わつて、其の次に自分等は天子の御手許の本と外の本と參考して、これだけのものを定本として極めましたといふことを斷わつて、其の次に其の本の得失を論じて居ります。此の學はどういふ所から出來て來て、この宗旨にはどういふ利益があり、どういふ弊害があるといふことを論じて居ります。それは戰國策も列子も晏子春秋も同一でありますが、こゝに一寸お斷りして置きたいのは、其の中の晏子春秋であります。現在に行はれて居るものには目録が無くなつて居りますが、七八十年前に支那で元板から覆刻した晏子春秋に、劉向の書いた目録の附いて居るのがありまして、それに依ると、内篇とか外篇とか分けて居りますが、其の中で面白いのは、外篇になつて、重複して異るものといふ一項を擧げて居る。前のと同じ事が重複してあるけれども、文章が違つて居るものといふのを擧げて居る。最も面白いのは、外篇の中に、經術に合はざるものといふことを載せて居る。晏子春秋の中に、劉向の見識でもつて、これは晏子の言ではなからうと爲し、道理に合はないものを特に擧げて居る。これが最も劉向が其の當時目録を編纂した體裁と意味とを現はして居るものでありまして、僅かに數行でありますけれども、それだけの事が書いてあるので、劉向が校合を十分に丁寧にして、單に校合のみならず、自分の見識によつて、いろ/\本の批評をしたといふことが、明かに現はれるのであります。しかしさういふ風に、自分の見識で、これは多分晏子の言ではなからうと疑ふ所のものでありましても、それを削るといふことはしませぬ。さういふものはやはり一篇として遺して置くといふことを斷わつてあります。これは多分後世の辯士の僞造であらうけれども、兎も角遺して置くといふことを斷わつて居る。かういふ所で、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の書物を校正する法則といふものが、今日でも分るのであります。
 これは七略のやり方、即ち本の目録を作つて部類分けの總論を書く、其の總論には、書物の由つて來る所を部類によつて之を分け、さうして何々派の學者はどういふ所から出て來たが、其の流れはどういふ風になり、其の利益はどういふ所にあつて、其の缺點はどういふ所にあるといふやうな評をすること、それから又一々の本に就いて一々に批評をすること、さういふことを以て一種の目録を大成するといふ考が、此の七略のやり方でありますが、此の方法はやはり隋書の經籍志までは明かに遺つて居ります。隋書の經籍志は、前に申します通り、七部の目録を四部の目録に變へて居りますけれども、其の四部の目録としての總評を、一々部類分けにして附けて居つて
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