支那の書目に就いて
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)佐世《すけよ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\それを仕上げました時は、
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 今日は支那の書目に就いて申上げるのでありますが、第一に申上げたいのは、支那の書目の分類の仕方の變遷でございます。それから其の前に一寸支那の書目といふものは、いつ頃から出來たかといふことを申上げて置きたいと思ひますが、これはもう圖書館の事に御關係の方は、どなたも御承知のことでありまして、現存して居る目録では漢書の藝文志が一番古いといふことになつて居ります。これはいつ頃出來たかと申しますと、漢書の出來ましたのは、後漢の班固が之を作つて、さうして班固の生きて居る間には十分出來上らずして、其の妹の有名な曹大家といふ女の學者が之を完成したといふことになつて居りますから、班固の歿くなりました少し後に出來たものと思はれますが、さうしますと、西洋紀元の一世紀の終り頃であります。しかしこの漢書の藝文志と申しますものは、これは班固が自分で初めから著述したのではなくして、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略といふものに依つて、其の六略を其の儘に採つて、其の一つの輯略といふものを省いたといふことになつて居ります。
 劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略を作ります來歴は、又其の先代から受繼ぎましたので、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の親の劉向、これが漢の宗室で、有名な學者でありまして、漢の成帝の時に目録編纂のことを申付けられました。一體この、目録の出來ますといふことは、大抵、本が散亂した後、それがもう一度集まつて來る、つまり本が散亂するといふ災難と、それから集める苦心とを考へた時に起るやうであります。それで漢の時の目録の編纂は、秦の始皇の時に本を燒いたといふことがありまして、漢の時になつて段々本を集めては見たが、集めて居る間にも段々失つたりなにかするものが出來る。それで漢の成帝の頃に、又使者を方々へ出して本を集めた。其の結果、どうかして保存をしたい、それにつけて目録を編纂したいといふ考が着きまして、遂に其の事を劉向に命ぜられたのでありますが、劉向がそれを命ぜられました時は、丁度西洋紀元の前二十四五年位の時であつたと思ひます、其の時に命ぜられてから、其子の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の時までかゝつて完成したのでありますが、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]がいよ/\それを仕上げました時は、前漢の哀帝の時代といふことになつて居りますが、哀帝の時代といふのは甚だ短い年數で、五六年しかありませぬ、其の何年に出來上つたかといふことははつきり分りませぬが、兎に角五六年のことでありますから、其の最後の年と之を考へますと、大抵西洋紀元前一年位の時に當ります。兎に角紀元少し前にこの目録が出來上つたのは確かだらうと思ひます。
 それから劉向の時は、書籍を校正しますのに、劉向一人でしたのではありませぬ。劉向が校正のことを書きましたものが、戰國策とか列子とか晏子春秋とかの卷首に今でも遺つて居ります。その外、漢書藝文志にも校正の始末が出て居りますが、それによると、やはり學者が數人共同して校正をしたものと見えますが、兎に角全部の書籍の中、半分位までは劉向自身が總裁の資格になつてそれを編纂したものらしく思はれます。其の外の半分は、これは一種の專門に渉る事柄であつて、專門の知識の無い者には一寸出來にくいことであるから、其の專門家を掛りとして調べたやうであります。例へば軍事のことは軍事の掛りで調べる、或は數術と書いてあるが、天文とか暦譜とか卜筮の事などである、これ等の事は各※[#二の字点、1−2−22]其の專門家が調べる、醫術の事は醫者の方で調べるといふやうなことにして、之を定めたやうであります。其の當時に於ては、最も其の知識を有つた人が、十分な調べをして校正したものと見えます。それが目録の出來始めであつて、其の時に出來ましたものを、劉向の方は之を別録と致しました。即ち劉向が本を見て居る間に、校合をした上に、自分の考によつて各※[#二の字点、1−2−22]の書籍の大意を論じ、又は誤りをも辯じたものを別録として書いたのであります。それは今日勿論纏まつた書としては遺つて居りません。それから劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]になつて七略といふものを作りました。其の中、六略だけが本の目録であつて、其の一つの輯略といふものは即ち總評とも謂ふべきものであります。さういふ順序で最初の目録が出來ました。さうして班固が漢書を編纂する時に、殆ど其の儘を採つた。尤も劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が歿くなつてから後に出來た本は、新たに書き加へられましたが、しかしこれは僅かなものであります。これで支那最初の目録が出來たのであります。
 其の時の目録の作り方は、七略と申しますが、輯略を除けば即ち六部に分けて居る。第一は六藝略といふのでありまして、これは今の經書であります。第二は諸子略といふので、これは老子とか莊子とか荀子とかいふやうなものでありまして、之を十種に分けて居ります。儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱横家、雜家、農家、小説家の十種であります。第三は詩賦でありまして、これは一番の元祖が屈原の離騒でありまして、即ち今で申すと純文學といふやうなものであります。それから第四は兵家でありまして、其の兵家の中にも四通りに分けて居りますが、其の四通りに分けた工合を見ると、兵の理論に關係したやうなもの、例へば兵の權謀、これが總論で、それから兵の陰陽といふやうなことがありますが、これは日柄の吉凶とか、星の事とか、種々の占の事など、古昔に兵事上に必要と認められた事に關係したもの、それから兵形勢といふのは戰術の書、兵技巧といふのは攻守の器械並びに訓練などの專門の事で、武藝の方にまで關係したことを集めてあります。かういふことは、兵學上の專門のことを知つて居るものでなければ出來ませぬから、これは歩兵校尉の任宏といふ人が調査をして居ります。それから第五が數術となつて居ります。これには天文があり、それから暦譜、五行の事があり、蓍龜即ち占の事があり、其他雜占といふ夢占とか、嚔、耳鳴の占とか、細かい種々の占のことがある。それから形法といふ、これは今の家相、方位のやうなことであります、さういふやうなものを數術と名づけまして、それを第五として居る。それから第六は方技であつて、即ち醫者の事であります。これも醫經、經方、房中、神仙の四通りに分けてあります。さういふのが此の劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の分け方でありまして、さうして其の外に輯略といふのを附けて居ります。これは劉向が多くは書物を校正しますのに、天子の御手許にある中書といふのと、それから外から集めた本、其の中には、劉向自身が持つて居る本やら、其の外の編纂官の持つて居る本、又は其の他の者の持つて居る本を集めて校合をして居りますが、一通り校合の總體の事を申しまして、それから其の本の成立ちを論じて居ります。さういふものを一々の本に附けたのでありますが、それを悉く寄せたものが即ちこの輯略であらうといふのであります。輯略は今は遺つて居りませぬから分りませぬが、藝文志に書いてある所を見ると、さういふものであつたらしく思はれる。これが劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の目録の作り方の大體でありまして、兎に角此の時は、總論と各目録を寄せて七部に分けてあります。
 其の後、支那の目録の作り方が、此の七部の分け方と、其の後に出來ました四部の分け方と、互ひ違ひに行はれて居る。七部の分け方も餘程長い間行はれて居りました。内容は漸々違つて來て居るが、ともかく長く行はれて居つた。それで現在は支那の分類は主もに四部であります。それは經書、歴史、諸子類、詩文集類と四部に分けてあります。此の四部の分け方の始めは、晉の時となつて居りますが、元來三國魏の時に出來た四部の目録がありまして、それに依つて晉の荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が四部の目録を作つた。其の時、これを甲乙丙丁に分けた。其の順序は、經書が第一、諸子類が第二、歴史が第三、詩文集が第四となつて居る。所がそれから後になつて順序を變へた。晉は間もなしに非常な亂世になつて、王室は長江以南に逃げて、其の時に有らゆる本が皆無くなつた。それから江南地方で國を中興して東晉になりますが、此の時代に李充といふ者が四部の目録を作つた。此の時に順序が變つて、今日の如く經書、歴史、諸子、文集といふ順序になりました。此の荀※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]、李充の分け方が今日の四部の目録の始めであります。
 しかし此の四部の目録が始まると、其の後皆此の法を採用したかといふとさうではない。後になつて又七部に分ける目録の作り方が行はれて居る。それは南朝の劉宋の時であります。其の時にやはり官の書籍を調べた王儉といふ人が七志といふものを作りました。それで此の分け方は、經典といふのが一つで、これは經書と歴史と一緒になつて居る。これはやはり劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の分け方と同樣であります。それから第二が諸子、第三の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の方で詩賦となつて居るのが文翰となつて居ります。第四の兵家と昔云つたのが名前が變つて軍書となつて居る。それから其の次の數術といふのが陰陽となつて居る。其の次の方技といふのが術藝となつて居る。これで大體劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略の中、六略だけの目録と其の分類が同一であるといふことが分るのでありますが、此の外に第七として圖譜といふものを作つた。即ち地圖とか系譜などを集めて第七に置きました。これは劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の如く書物の總解題といふものは無かつたのでありませう。其の外に、此の時は既に佛教道教が行はれて居りましたから、佛教道教の本が附いて居つた。それから劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]以來の目録に缺けて居る本を特別に擧げて居たといふことでありますが、それはしかし此の部類分けの數には入らぬのであります。兎に角七つに分けて、さういふ附録が附いて居る。これは王儉の目録の分け方でありますが、これも今日は傳はりませぬ。
 それから其の次は、南朝の齊の時に、官で作つた目録は、やはり四部であります。それから梁の時になつて、それを受繼いで、やはり四部の目録を作りました。其の中に數術に關係した事だけを一つ餘計に入れて、五部に作つたといふ説もあります。しかしこれ等の目録は今日皆傳はりませぬから、どういふ分け方であつたかといふ細かいことは、はつきり分りませぬ。
 其の次に、今日では書名の細目は分りませぬが、總序と、本の全體の各部類の總論のやうなものだけ遺つたやうなものがあります。それは阮孝緒の七録といふもので、梁の時代のものであります。これは政府の官吏が作つたのではなくして、民間の學者が篤志を以て作つたのであります。此の阮孝緒の七録といふものは、内外二つに分けてあつて、其の内篇を五つに分け、外篇を二つに分けて居る。此の分け方は七つに分けてあつて七録と申しますが、此の七録の内容は、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略、宋の王儉の七志などゝは分け方が違つて居る。第一は經典で、これは經書だけであります。第二は紀傳となつて居て、歴史が獨立しております。前には歴史は經書の一部分になつて、獨立をしませんでしたが、こゝに至つて歴史が獨
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