しそれだからというて、七略の昔に復さうといふのではない、今日の四部の分け方は、どうしても七略の昔に復せぬ理由がある。それで種々其の理由を擧げて居るが、例へば昔は歴史は經書の一部分であつた、所が其の後になつて、歴史の種類が澤山になると、元のやうに經書の一部分に繰り込む譯にいかぬ。其の外、一種妙な鄙俗な記述でありますが、詩文の評などがある。昔は詩文の評というても、皆源流を論じ、成立ちを論じ、さうして得失を論じて居つたものでありますが、後になつて、それ程の大著述をする力もない人が、ほんの頭の上で自分の面白いと思つた所を批評する、例へば僞物でありませうけれども、蘇老泉が批評をした孟子だとかいふものがある、これ等のものは著述といふ程の價値はないが、何か自分の意見を書いたものであるから、之を全く書目の中から取り去る譯にいかぬ。さういふものが既に新たに出來て來る以上は、どうしても昔の七略の法に復す譯にはいかぬ。今日書物の分類を四部にすることは已むを得ないことであつて、必要に應じてやつたのであるから仕方がない。しかしながら其の目録を作る意味だけは、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の昔
前へ 次へ
全37ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング