を集めた。其の結果、どうかして保存をしたい、それにつけて目録を編纂したいといふ考が着きまして、遂に其の事を劉向に命ぜられたのでありますが、劉向がそれを命ぜられました時は、丁度西洋紀元の前二十四五年位の時であつたと思ひます、其の時に命ぜられてから、其子の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の時までかゝつて完成したのでありますが、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]がいよ/\それを仕上げました時は、前漢の哀帝の時代といふことになつて居りますが、哀帝の時代といふのは甚だ短い年數で、五六年しかありませぬ、其の何年に出來上つたかといふことははつきり分りませぬが、兎に角五六年のことでありますから、其の最後の年と之を考へますと、大抵西洋紀元前一年位の時に當ります。兎に角紀元少し前にこの目録が出來上つたのは確かだらうと思ひます。
それから劉向の時は、書籍を校正しますのに、劉向一人でしたのではありませぬ。劉向が校正のことを書きましたものが、戰國策とか列子とか晏子春秋とかの卷首に今でも遺つて居ります。その外、漢書藝文志にも校正の始末が出て居りますが、それによると、やはり學者が數人共同して
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