つて居りますから、班固の歿くなりました少し後に出來たものと思はれますが、さうしますと、西洋紀元の一世紀の終り頃であります。しかしこの漢書の藝文志と申しますものは、これは班固が自分で初めから著述したのではなくして、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略といふものに依つて、其の六略を其の儘に採つて、其の一つの輯略といふものを省いたといふことになつて居ります。
 劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の七略を作ります來歴は、又其の先代から受繼ぎましたので、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の親の劉向、これが漢の宗室で、有名な學者でありまして、漢の成帝の時に目録編纂のことを申付けられました。一體この、目録の出來ますといふことは、大抵、本が散亂した後、それがもう一度集まつて來る、つまり本が散亂するといふ災難と、それから集める苦心とを考へた時に起るやうであります。それで漢の時の目録の編纂は、秦の始皇の時に本を燒いたといふことがありまして、漢の時になつて段々本を集めては見たが、集めて居る間にも段々失つたりなにかするものが出來る。それで漢の成帝の頃に、又使者を方々へ出して本
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