は職を失つた人が、其の職務の記録を學問として傳へ、段々と相傳する人が其の上に書きつぐといふやり方で、自分が一人で著述をするといふ意味でなく、その學派の相續の爲に本が出來たのでありますが、漢の時には太史公などは、自分の著述として出すやうになりました。これは太史公に始まつたのではありませぬ。莊子とか荀子とかいふものが出來ました時に、已にさういふ傾きがあつて、莊子とか荀子とかいふ本を集める時に、外の學派を批評して、さうして自分の方がえらいのであると云つて著述して居ります。史記を見ると、いろいろのものを集めて一纏めにして自分の一家言を作るのであると云つて居る。これは一種の著述をしたものであると謂つてよい。
それで劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]が目録を作るのも、やはりこれと同樣の意味であります。單に本の名目を列べて、さうしてそれに自分の小書きの注がありますが、小書きの注には、何篇あつたものが何篇遺つて居るとか、何處に脱簡があるとか、或は名目だけ遺つて居つて、本が無くなつて居るとかいふことがありますが、それは現在のものを事實に依つて調べてやつたのであります。其の外、今の漢書の
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