した。それから處々自分の編纂の趣意を現はして居ります。五帝本紀といふものを書くと、此の材料はどういふ採り方をした、どういふ種類の材料は信用が出來るといふやうなことを明かに斷わつて居る。尤も骨を折つたのは表と八書でありまして、此等は自分に見識があり、主張があつて、それによつて書いたのであります。それで其の外の本紀とか世家とか列傳とかいふものでも、其の事實を書きました間に、自分の議論をも見はして居りますが、しかしこれ等は多くは編纂の方法に於て趣意を見はして居ります。それでつまり史記全體が自分の一家の著述であつて、單に昔の事實を集めたといふ趣意ではないのであります。あれを書けば、昔の孔子以來の諸子などが本を著はしたと同樣な位置に坐るものであるといふ考で書いたものであります。これは一つの例でありますが、凡ての人が本を書くのに、さういふ意味で書いて居ります。
 しかしこれも言はゞ漢の頃からの一つの變遷でありまして、其の前の本の書き方は少し違ふのであります。其の前の書き方は、必要に應じた自分の職務々々の記録であります。それが段々變遷して、戰亂の爲に官職といふものが無くなると、昔其の官職に在つて、今
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