散して來た由來を書いたゞけで、何の評もありませぬ。しかしまだ舊唐書の經籍志に取り所のありますのは、舊唐書は唐一代の歴史でありますが、その經籍志は、玄宗皇帝の開元年間に政府の庫にしまつて居つた本だけの目録であります。それが大變善い所であります。其の當時庫にこれだけの本が現存して居つたといふことが明かに分る目録であります。それが目録の活きて居る所でありますが、もう既に評を書くといふことは無論出來ませぬ。恐らく開元の時から二百年も經つて書いた本でありますから、其の時にあつた本でも、もはや見ることが出來ないやうな譯でもありましたのでせう。開元より以前百年ばかりの間の本が載つて居るので、其の以後のものは載つて居りませぬ。それは缺點でありますが、しかし開元の時に書庫に現存して居つたものであります。それが同じ唐書でも新唐書になると、更に墮落しております。新唐書の藝文志は、今日でも珍重されるものでありますが、信用の出來ぬ點がある。それは開元までの間は、舊唐書の目録に依つて書いた。それが五萬幾千卷の書目であります。それは開元の目録に依つて書きました。其の以後更に二萬何千卷の書物を載せた。それは何處の書庫にあつたといふことでもなし、又目録を書いた人が見たといふでもなし、唯だ誰の著述があつたといふ事柄によつて書いた。それで新唐書の目録は、本の數の列んで居る所から見ると、都合がよく出來て居りますが、しかし出來上つたものは、それは何れの時に何れの場所にそれがあつたかといふことが確かまらない目録であります。何の證據にもならぬ目録であります。あとの二萬何千卷は、實物を見ずに勝手に加へたものであります。さうして見ると、唯だ唐の時にこんな著述があつたといふ噂の記録であるだけで、果してそれが行はれて居つたかどうかは分りませぬ。これは目録を作る上に於て非常な失敗であります。
 其の後になりますと、益※[#二の字点、1−2−22]さういふ傾きがありますが、尤も其の前にも多少さういふことが無いではありませぬ。阮孝緒といふ學者が作つた目録は、これは官の目録ではありませぬ、私の目録でありますから、其の時の記録に依つて作つたものに過ぎないのでありますが、正史に載せてある目録としては、舊唐書の經籍志までは、兎に角何れかの時に、何れかの處にあつたものに依つて書いたのであります。それは隋書の經籍志でもさうであります。け
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