て、この宗旨にはどういふ利益があり、どういふ弊害があるといふことを論じて居ります。それは戰國策も列子も晏子春秋も同一でありますが、こゝに一寸お斷りして置きたいのは、其の中の晏子春秋であります。現在に行はれて居るものには目録が無くなつて居りますが、七八十年前に支那で元板から覆刻した晏子春秋に、劉向の書いた目録の附いて居るのがありまして、それに依ると、内篇とか外篇とか分けて居りますが、其の中で面白いのは、外篇になつて、重複して異るものといふ一項を擧げて居る。前のと同じ事が重複してあるけれども、文章が違つて居るものといふのを擧げて居る。最も面白いのは、外篇の中に、經術に合はざるものといふことを載せて居る。晏子春秋の中に、劉向の見識でもつて、これは晏子の言ではなからうと爲し、道理に合はないものを特に擧げて居る。これが最も劉向が其の當時目録を編纂した體裁と意味とを現はして居るものでありまして、僅かに數行でありますけれども、それだけの事が書いてあるので、劉向が校合を十分に丁寧にして、單に校合のみならず、自分の見識によつて、いろ/\本の批評をしたといふことが、明かに現はれるのであります。しかしさういふ風に、自分の見識で、これは多分晏子の言ではなからうと疑ふ所のものでありましても、それを削るといふことはしませぬ。さういふものはやはり一篇として遺して置くといふことを斷わつてあります。これは多分後世の辯士の僞造であらうけれども、兎も角遺して置くといふことを斷わつて居る。かういふ所で、劉向、劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の書物を校正する法則といふものが、今日でも分るのであります。
これは七略のやり方、即ち本の目録を作つて部類分けの總論を書く、其の總論には、書物の由つて來る所を部類によつて之を分け、さうして何々派の學者はどういふ所から出て來たが、其の流れはどういふ風になり、其の利益はどういふ所にあつて、其の缺點はどういふ所にあるといふやうな評をすること、それから又一々の本に就いて一々に批評をすること、さういふことを以て一種の目録を大成するといふ考が、此の七略のやり方でありますが、此の方法はやはり隋書の經籍志までは明かに遺つて居ります。隋書の經籍志は、前に申します通り、七部の目録を四部の目録に變へて居りますけれども、其の四部の目録としての總評を、一々部類分けにして附けて居つて
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