最初に行はれた、それを今文の易とか、書とかといひます、其後王莽が勢力を得ました頃から古文の學問が流行つて參りました、それは孔子の家の跡から古い竹簡を掘出したことがある、然ういふ本には古文で書いてあります、それを讀むことを古文の學問といひます、其方を盛んに研究する人を古文學派といふことにしたのであります。
 周禮は古文學派に屬する經書でありまして、今文にはありませぬ。今日周禮の中で何處まで信じて宜いかと云ふことを多少安全に定むることは、反對派である今文學派の方で信じて居る古書、即ち禮記、儀禮の中に何處まで周禮に在ることがあるかと云ふことを確めるが宜い、今文學派のやつて居る所と古文學派の云ふ所を引合せて兩方とも一致することは多少信ずることが出來ると考へた方が宜からうと思ひます、それは勿論私共が格別骨を折らぬでも其點を注意して支那で研究して居る人もあります、其方の研究に依つて今申上げました此の五つの史官のことを段々調べて見ますといふと或る結果が見はれて來ます、勿論支那人の調べたのに多少私の少し許り調べたのを附加へてお話しすると、大史とは何ういふ風なものであるかと申しますと、土臺今文の學問といふものは周の制度に關する見解が周禮とはスツカリ違ふ、周禮の方では天官から冬官まで六つの官を定めて居りますが、其の六官の立て方さへも古文と違ひます。
 今文派で大史といふのは第一どういふ所に載つて居るかと云ふと禮記に載つて居ります、禮記の學問は總て今文の學問であります、禮記の一番眞先きの曲禮《コクライ》の中に天官に六大ありと云ふことが書いてある、夫には大宰、大宗、大史、大祝、大士、大卜、斯う書いてあります、周禮の方では大史といふ官は春官に入つて居りますが、是では天官の方に入つて居ります、其處には何ういふ職務をするかと云ふことは書いてありませぬが、大史の官職を今文の方で詳しく書いてあるのは何に在るかと申しますと儀禮の方にあります。
 儀禮は今文家が信ずる所の經でありまして、此の方には大史の職務を書いてありますが、それは周禮の中に在ります大史の職務の中で射禮の時に弓の數取をする職務の事だけを主もに書いてあります、兎に角澤山周禮の中に種々な大史の職務がありますが、其中今文の方の説と合ふのは儀禮に書いてある弓の數取をする職務だけであります、それから小史のことに就きましても儀禮の大射禮の所に出て居ります、矢張りこれが大史を助けて弓の數取をする職務のことを書いてあります。
 それから内史、外史であります、内史は尚書や左傳の中にも出て居ります、策命を書する事、諸侯や何かに策命を下す時に掌ることが書てあります、是だけは古文も今文も一致するのであります、其外、内史に關係しますことは漢書の百官公卿表にあります、其處には内史は周代から在る官であつて秦の時代にも周の制度に由つて内史といふものがある、何ういふ事を掌つて居るかと云ふと、百官公卿表に在るものは天領の政治を掌る者を内史と云て居ります、そこで周禮の方に返つて來て調べて見ますと云ふと、詰り王の八通りの職務を掌ると云ふことと多少關係を有ちます、右の如く内史の官に於きましては古文學派の説も今文學派の説も合ふ事になります、外史に關することは今文には全く見えないが、左傳には單に「外史を召して惡臣を掌る」と云ふ事が書いてありまして、周禮にある外史の職務とはトント合はないのであります、外史の職務が同じ古文の中でも、周禮と左傳と合はないとしますと、判然した事は分りませぬ、御史の方の官は矢張り漢書の百官公卿表に之は秦代からある官であると書いてありますけれども、實はモツト前から在りますので、何誰も御承知でありませうが有名なる※[#「※」は「さんずい+黽」、読みは「めん」、第3水準1−87−19、152−5]池の會に秦王が趙王に瑟を鼓せしめ、趙王が秦王に缶を打たしめた、その時に各々御史をして其事を書かしめたといふことがあります、夫は祕書役のやうなものであると思ひます、秦の始皇の時代になつても最初は王の手許のことを掌る役で祕書役であります、支那のやうな長い專制の政治の國では、君王の左右に居つて祕書役をする者が大いなる權力を占めます、支那の歴代官制の沿革を觀ますと、大抵王の祕書役であつた者が後に宰相の職に變化して居る、秦以前の御史は王の祕密の役人であります、それから漢の時は三公の一に加はるやうになつて來た、所で其の變化は分つて居りますが、周公の制度とも云ふ可き周禮に其官が在つたと云ふことは信じられないと今文學者の方は言うて居る。
 其處で此の五つの史のことを考へて觀ますと、古文と今文と好く合ふ點と合はない點の在ることが判ります、外史と御史は今文と古文と合はぬ、それが周の時から在つたことは信じられぬといふことになつて居ります、それで大史、小史、内史のことは、大體合ふ所もあるのでありますが、其中最も早く出來最も重い官でもあり亦最も史官の根本でもあつたらうと思ふのは、大史小史を一緒にした史といふものであらうと思ふ、其の史の中の分職で王の直領のことを掌る者が内史と云ふ者になつたらうと思ふ、其の大史小史の職務の中で今文と古文と一致して居るのは射禮の時に弓の數取をするといふことだけであります。
 支那の古いことを研究しますのに、文字の研究からすることがあります、それで史といふ字は一體どういふ字かと云ふことの研究が從來何うなつて居るかと云ふことに就て少し許りお話をして見たいと思ふ、何時でも古い文字の研究に引出されるものは、後漢の中頃に出ました許愼の「説文」といふ字書である、説文は文字を皆篆書で書いて居るので史の字は「※[#「※」は「史」の篆書体、読みは「し」、153−3]」斯ういふ形になつて居る、説文は之に何ういふ解釋を下して居るかと申すと「史記事者也、从又持中、中正也」とあります、又は物を持つ手の形で、説文には又に中を持するに从がふ、中は正なり、此の解釋を申しますと、中は正なりで史官は昔から正しいことを書く筈の者だと云ふやうに説文は解釋して居る、實は之は史官が始めて出來た時の史の解釋としては信用が出來ない、是に對して昔から學者の間に異論があるのであります。
 近年支那で古い文字を大に研究しました人に呉大澂といふ人があります、之は日清戰爭の頃には湖南巡撫の官で防禦軍の大將として出て來た人でありますが、此人は古い文字の研究家であります、此人が説文の史字の解釋に異論を唱へて居ります、この人の解釋では中正の中といふ字の古い銅器などに出て居る形を見ますと「※[#「※」は「中」の篆書体、読みは「ちゅう」、153−9]」の形をして居らぬ、「※[#「※」は「中」の篆書体別体1、読みは「ちゅう」、153−10]」の形になつて居る、之は旗の形を現はしたので、即ち中の字の本來の形である、史の字の中の部分は之とは異つて居るので、之は簡册の形で史は手に簡を執るといふ字だと解釋して居る、又清朝の始めに有名な江永といふ學者がある、江永の有名の著述に、周禮疑義擧要といふ本がある、その中に凡そ官府の簿書は之を中といふ、夫で昔秦の始皇の時には治中と云ふ官がある、又周禮の中にも小司寇の部に、庶民の獄訟の中を斷ずると云ふやうなことがある、之は中といふのは役所の帳面の事を謂ふのである、其處で文書を掌る者を史といふのは、役所の帳面を手に持つて居る形である、之が史と云ふ字の根本の意味である、史といふ官は前にも申しました通り府史胥徒といつて、種々な官の史と云ふ者があります、其所で帳面を持つて居る形で以て史と云ふものが出來たのである、これが江永の説である、此説は餘程好い所がありまして、中と云ふものが簿書の意味だと云ふことから史の義を解釋した、呉大澂の方は史の字の中が、中正の中でないといふ上から解釋したのでありますが、夫に就て私はもう少し深く考へて見たいと思ふのです。
 近來京都に來て居る羅振玉といふ學者は文字のことに精通して居る人であるが、此人が殷虚書契の考釋の中に、中の字は普通の中の時は※[#「※」は「中」の篆書体別体2、読みは「ちゅう」、154−3]ともかき※[#「※」は「中」の篆書体別体1、読みは「ちゅう」、154−3]ともなつて居る、史の上の中の字は※[#「※」は「中」の篆書体、読みは「ちゅう」、154−3]斯ういふ形になつて居る、中正の中とは違ふと云ふことを云て居る、其は呉大澂の説も羅氏の説も或點までは一致するのであります、併し其の史の上の中といふ根本の意味は何であるかと云ふと、私は簡册もしくは簿書の意義になる前に、弓の數取の※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、154−5]を入れる中の意味と解釋したい、前に申しました如く、周禮に「中を飾り※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、154−6]を舍き其の禮事を執る」と云ふことがあります、其の中、又儀禮に載つて居る中でありますが、中は物を數へる※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、154−7]を器の中に入れた形※[#「※」は篆書体、154−7]斯ういう形に※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、154−7]を舍く、其の形を極めて簡單に現はした時は「※[#「※」は「中」の篆書体、読みは「ちゅう」、154−8]」此の字になる、其れを手に持つて居るのが即ち史になつたのである、之が丁度今申上た儀禮と周禮と一致する所の史の意味から考へて見て、それから亦文字の形から考へて見ても、何の點から考へても宜いと思ひます。
 最初の史と云ふ職務は弓の數取であつたらうと思ひます、今日でも球などを就いてゲームをする人が數取が側に居つてチヤンと數を數へてるやうなもので、昔周の時には大射禮といふものがあります、隣國との境に弓を射る事が禮儀になつて居る、其の數を取ることは餘程必要な職務であつて、それが史であつたものと思ふ、それは儀禮に出て居る大史小史である、それが亦周禮に載つて居る大史にも當る、私は此の考を後に羅振玉氏に話しました所が、夫は宜からうと云ふことで、幾らか安心をしました、それは最初の史官の話でありますが、昔は數をかぞへるといふ事は餘程大事なことでありまして、文字の十分發達しない時から、數に依つて物を記憶する、結繩の政も數のことから出て居る、又支那で天下を治むる大法を書いた尚書の洪範篇には、其の大法を九つの項目に分けたので、其の各々の中に五とか六とか或は八とかの小項目を系けてあつて、何でも數で記憶するやうに作つてありますから、數を記憶さすと云ふことは餘程肝心な事であつたと思ひます、夫で第一史の職務といふものは弓の中つた數をかぞへる所から、其外の數を記憶することも段々の史の職務になつて來たのであらうかと考へます。
 數をかぞへると云ふことが段々發達しますと、昔は暦日天文の事が餘程大切なことになります、數の發達したのが古代では天文の職務であります、そこで大史の職務の中には天文の職務が主もなる職務になつて入つて來た、それから段々史といふものが筆を執つて物を書くやうになつたらうと思ふのでありますが、兎に角史官の起原は然ういふ所から來た、それは何時代頃からかと云ふと、殷虚の龜の甲に書いてあつた所から觀れば、殷代には既に在つたらうと思ひます。
 夫から史官の盛んになつたのは周の時代と考へます、周の時代には史の職務を苗字同樣にしたものがあります、史某、大史某、内史某と云ふ人もありました、殊に周の制度を建てた者で周公と並び稱せられた史佚といふ人があります、之は傳説に依れば周公と並んで聖人と稱せられました、即ち史官で最も豪い人は聖人とも稱せられました、今日知られて居ります所に依ると、殷代では史と云ふ職務の人に豪い人が無くて、却つて巫某といふ人に有名な人がある、例へば巫賢、巫咸などがあります、殷では鬼神を祭ることを尊ぶ風俗があります、そこで殷代では神を祭る方の職務の巫の方に賢人とも謂はるゝ宰相同樣の人があつたが、夫が周代になつて史と
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