いふ職務を帶びた人に聖人と云ふやうな者の出來たことは、史官といふものが周代に於て盛んになつたといふことが推測さるゝやうでもあり、其の職務も前に申しましたやうな種々周禮に在るやうな職務を帶びるやうになつたと考へます、周の頃は多くの官は皆日本の古代同樣で世襲である、此の史に關係した職務も世襲である、然うして史と云ふ職務はいろいろの職務の中でも非常に神聖の職務として信じられて居つた、尤も古代の職務は日官でも、陶器を作る官でも神聖のものと多少感じられて居つたので、官が即ち家であつて家即ち官である、家の職務は神聖であつて外の家で奪ふことは出來ぬものと大抵極められて居つた。
史家の職務の神聖と云ふことに就ては、其の事蹟も種々ありますが、直筆を以て有名なる晉の董狐と云ふやうな者が史の職務を枉げず直筆で勤めたと云ふやうな事も、世襲に史官の職務を持つて居つたから、立派な直筆が出來たことと考へます、齊の崔杼といふ者が齊の君を弑した時に、齊の國に大史、南史といふ史官の家があつた、崔杼其君を弑すといふことを大史氏の史官が記録した、崔杼が其の記録した者を殺した、所が其の弟が亦同樣な記録をした、又其の弟を殺した、處が南史氏の家で大史の家の兄弟が二人まで崔杼に殺されたと聞いて自分が行つて其のことを書かうと簡を執つて出掛けて行きました所が、其の途中で、大史氏の今一人の弟が崔杼君を弑すと書いた、所で到底崔杼の權力で史家の直筆を止めることが出來ないと感じて、そのまゝ書きのこさして了つたと云ふことを聞いて南史氏が安心して歸つたと云ふ話がある、然ういふ風に史官の職務といふものは非常に重ぜられたものでありますが、之は天子なり、諸侯なりの顧問役のやうな職務を執つて居るから、重要な官と考へられて居つたらうと思ひます、秦漢以後になりますと、其の職務の模樣も變り官吏は世襲でなくして、天子から命ぜられてなることになりましたから、其人一代かぎり命ぜられるのでありますけれども、史は直筆を曲げないものと云ふ言傳へだけは支那に遺つて參りましたのは、斯ういふ起原があるからで、大體史の起原は數を掌り、又天文を掌るいろ/\の數を記憶することから發達したものと考へます。
今日お話し致したいと思ふことは大體其位で盡きて居るのであります、唯だ茲に全く問題以外でお話して置き度いのは、今度地理歴史の教職を有つて居られる諸君の御會合といふことで、種々中等學校の課業に對して研究して居られるので隨分大切な問題も出て居るやうであります、昨年あたりも種々の問題が出て居りまして、夫が決議されました結果相當の效力を收めて居るやうに聞いて居ります、今年はいろ/\歴史上の問題も出て居り、私の關係して居る東洋史の教授に關係したことも出て居りますが、今日のお話には全く關係のないことでありますけれども、それに就いて一言御注意を申上て置きたいと思ひます。それは何處かの學校から御提出になつたことで「東洋史の教授を左の方針に改むるの可否」と云ふものが出て居ります、即ち近代史を主として古代史には近代并に日本に關係あることを授くる云々といふことであります、私も斯ういふ風な考を曾て持つたことがあるのでありますが、中等學校で歴史科を始めます時は第一に國史を教へられるのでありませう、其の國史を中心として外の東洋史でも西洋史でもそれに關係あることから教へてゆくといふことは學科の關係上都合の好いことであらうと思ひます、其の授けられる方法に於ては私は其説を至つて贊成を致します、それから又教科書の方針も多少然ういふ風に改めると云ふやうなことも全く不贊成でありませぬ、只だ斯ういふ風な問題が出ますと此の説が可いと云ふことになつて、然うして其の方針で以て教科書を作ると云ふことになつて、何うかすると今迄の標準をスツカリ變へて了つて、新らしい標準に據つてやる考が出て來る、其時は又何うかと云ふと、今まで餘り一般的歴史家を養成するやうな項目を授けて居つたのが、殊に極端にひつくり返つて、餘り一方に偏した考への教科書の續出する憂が無いかと心配いたします。東洋といふ中にも、支那とか印度とか又中央亞細亞の國々もありますが、殊に支那のことなどに於きましては、日本との關係は多少西洋の諸國から東洋のことを知るといふやうなことと譯が違ふ點があらうと思ひます、日本の支那に於ける關係は、日本の文化を獨立したものとしての考から申しますと、日本の文化の起原は日本の開闢から獨立してあると考へて居れば、一番都合が好いのでありますが、多少公平に之を考へますと、日本の文化は普通二千何百年間知られて居る、その日本の歴史が始まつた時、其時に日本が有つて居た所の文化は、日本が根本から必ずしも有つて居たのでなくして、矢張り前に發達した國から其の文化を受けて居ることを承認しなければならぬ、然うしますと東洋の古代といふやうなことは單に東洋の古代といふやうなものでなくして、日本の歴史の無い前の時代、日本の文化の由つて來る所を知るに必要なものであります、西洋歴史に致した處が、英、佛、其他現在の諸國の創立はソンナに古いものではありませぬが、其の古代史たる希臘羅馬を除外して粗末に取扱ふことは決して無い、希臘羅馬の古代の文化を知らなければ各々の本國の文化が分らないことになる、日本の支那に於ける關係は然ういふ所を參酌しなければならぬ、單に自國に關係のないことと云ふことで以前のことを切捨てると、そこに間違つた見解が出て來るかと思ふ、古代のことは日本史と東洋現代に關係のあることと云ふことにしてありますから、其所に注意すれば宜しいのでありますが、此の關係のあることといふものを巧みに書いて、然うして間違ひなく其の系統を立てるといふことは、專門の歴史家でなければ出來ぬことで、中々困難のことであらうと思ふ、それで今日の中等學校の教科書は隨分專門の學者も書きますが、然うでない者が書けば、一寸したことでも誤つて教科書を書いて文部省の檢定を受ける、文部省の檢定官にも間違ひない人ばかり居るかと云ふと私は然うは信ずることは出來ませぬ、一寸檢定官が誤つた見方でそれを通して教科書にすると、多くの人は其の先例に據つて教科書を作る、今日では私共同僚の桑原君の教科書は東洋歴史の標準といふやうになつて居る、多くの教科書の標準として桑原君のやうな專門家の確かな物が手本になると好いけれども、一寸誤つた物を書いてそれが檢定されました時に、其れに據つて澤山の教科書が出來ると、檢定官も前に出來たものゝ例に依つて檢定するやうになつて居る、其の誤の例で自分が發見して居る事項もある、それを擧げろと云へば私は何時でも擧げてお目にかけます、詰り檢定官の智識が餘り當てになりませぬ、夫だから若し教科書の方針を變へるといふやうなことが出來て來ますと、餘り極端に走ると云ふやうな傾きが起らぬかと思ひますから、其點を中等學校に於て其の職務に從事して居られる方は充分御注意下さることを希望する次第であります、丁度斯ういふ問題が出て居りますから一言御注意を申上げて置きたいと思ひます。
(大正四年十二月六日中等學校地理歴史教員協議會講演)[#地より1字上げ]
底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房
1970(昭和45)年2月25日発行
1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
1928(昭和3)年4月発行
初出:中等学校地理歴史教員協議会講演
1915(大正4)年12月6日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年8月30日公開
2003年5月25日修正
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