支那に於ける史の起源
内藤湖南

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 支那に於ける史の起源に就て述べようと思ふのですが、此の史といふ字には支那では二樣の意義を持つ事になります、一は歴史の書籍の方の意義で、一は歴史を掌る官吏、即ち史官の事になります、其の史籍の方の起源になりますと種々込入つて居りますので、今日は單に史官の起原の事に就てお話を致さうと思ひます。
 支那に史官のあつたと云ふ傳説は大分古くからあります、非常に古い話になりますと黄帝の時に倉頡、沮誦といふ史官があつたと云ふ言傳があります、夫から支那で今日遺つて居る歴史の體裁の本の中で古いのは先づ尚書即ち書經でありますが、その中に堯舜の事を書きました堯典は、尚書正義と云ふ唐の孔穎達といふ人の書いたものに據ると、夏の時の史官が之を書いたと云て居ります、然うすると夏の代から史官があつたやうに見えるのであります、併し夫は單に傳説の上に殘つて居るだけでありまして、確かに史官があつたと云ふ事の證據にはなりませぬ、多少證據になると申しますものは、今日、東洋史の陳列室で御覽になつたらうと思ひますが、彼の殷虚即ち殷の都の跡から十數年前から追々發見されました龜の甲とか獸骨に彫りました文字の中に史といふ字があります、夫であれは確かに殷時代の物となつて居りますから、殷の時代に史といふものがあつたといふことが確になつて參りました、黄帝の時の倉頡といふ人は史官といふ言傳もありますが、又最初の文字の製作者といふ言傳へにもなつて居ります、倉頡が史官か何うかと云ふ事は此の如くハッキリしませぬのみならず、勿論黄帝といふ人からしてハッキリしないのでありますが、ともかく沮誦といふ史官などがある所を見ますと、支那人が古代の史官といふものに就て下した想像は、日本の「語部」同樣、言葉を以て語り傳へた形蹟があるものと思はれます、言葉を以て傳へたと云ふ所から沮誦といふ誦の名が出て來たと思ひます。のみならず莊子の中に、昔の古い傳へのある事を書きました所に、何々は之を副墨之子に聞き、副墨の子は之を洛誦之孫に聞くと云ふ事が書いてある、副墨の子といふのは何か文字を書く方から云つたものに違ひない、其の書記す所の記録は之を洛誦に聞くと云ふのは、洛誦は言葉で語り傳へた事を言ひ現はしたに違ひない、然ういふ事を莊子の中に言てありますのでも、古くは言葉で語り繼で居つたといふ傳説のあつた事が分る。
 勿論史といふ文字が明らかに出來ましてから後でも、大體史といふものが之を言葉で傳へる者であつたか、即ち語り傳へたものであるや否やと云ふことは判然しませぬ、尤も禮記などには少し判然と分けてあります、禮記の曲禮の中に史載筆、士載言と斯う擧げてあります、士とはその當時の意義からいへば、裁判官であります、裁判官の方で言を載せると云ふ事になつて居り、「史」といふものゝ方が筆を載せることになつて居る、裁判官が言を載せるといふことは少しをかしいですが、夫は又別に理由があるのであります、兎に角歴史の方の「史」といふ者は筆を持つて居るといふ事は明らかに言てあります。
 昔の筆といふものは何ういふ物かと申すと、最初は殷虚から出ました龜の甲などに字を現はしてある如く「ナイフ」のやうな物を以て彫付るのであります、其のナイフのやうな物が即ち筆であるのです、尤も禮記は支那の古書としては經書の中では最も晩く出來ました本であります、即ち禮記の中の大部分は今日の進歩した經學者の考へとしては多くは漢の初頃に出來たものである、勿論戰國から書續いたものでありませうが、此の二語の如きは之は古書を鑑別する見方に依つて觀ますと云ふと、禮記の編纂された時よりは或はモツト古く斯ういふ語のありましたものを茲に載せたかと考へられますが、兎に角古書の中では比較的新らしいものであります、夫で史と云ふ者の職務に就ても極めて簡短な事を書いてある。
 もう少し古書に於て史に就て詳しく書いたものが無いかと申しますと、今日在ります所の古書には更に詳細なのがあります、勿論古書の鑑別の仕方は餘程面倒なもので、其の眞僞に就ては種々議論がありますが、古い制度を詳しく書きましたのは周禮である、周禮の中に史官の職務に就て詳細な記事があります、周禮にはあらゆる官職に就て六つに大別してある、天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官としてあります、其中春官の部類に史の職務の事が載つて居ります、夫には史を五つに分けてあります、大史、小史、内史、外史、御史であります、然うして其の職務の細目を擧げて居ります。
 第一、大史と云ふものゝ職務に就ては、邦の法典を掌る、邦と申しますと天子の直領です、官府の治め方の法を掌る、都鄙の治め方の規則を掌ると云ふことになつて居りますが、其の中に邦國、都鄙及び人民の約束に關係した書類を藏ひ込んで居つて、六官即ち天官より冬官までの六官でありますが、其の六官の書類の副本を取つて置くと云ふことが書いてあります、若し其の約束に就て訴訟のやうな事があつて調べなければならぬことがあると、大史は庫を啓いてそれと引合せる、然うしてそれに合はないと罰する、斯ういふことを書いてある、詰り人民の約束、裁判事件に關係したやうな書類を藏つて置く、それが一つの大事な職務になつて居ります。
 それからモウ一つは暦の事を掌る。又暦を頒つ事、夫から暦に因つて王の職務の年中行事がありまして、日本でも昔朝廷には年中行事がありましたが、其の年中行事の規定に依つて王の動作を大史が差圖をするのであります、大祭祀のあります時は、祭の執事者と日を卜ひ、又祭の次第書、――「禮書」と書いてありますが、次第書を讀んで其の事柄の順序を立てる、祭の日には亦其の祭のプログラムの書いた物を持つて然うして人々の位置や何かを極める。
 それから其次に王の職務として諸侯を會同朝覲せしめる事がありますが、諸侯が會同して來た時には、矢張り書付を土臺として其の禮の事をして始末を合せる、贈物をする時にも其の次第書を書いた物を以て王に其の次第を皆告げる。
 それから大きな軍さのありました時には、當時に大師と申しまして盲人で以て種々澤山物を覺えて居つて、「語部」の役をやつて居る官がありましたが、これが王の顧問官になる者であります、大史も其の盲人と一緒に車に乘つて王の顧問官になつて天文のことに關係した事を述べる、夫から國が遷る時、周も長安附近の地方に居つたのが洛陽の方に遷りましたが、然ういふやうに國の遷る事がありますと、其の遷り方に關する法書を持つて王の先きに行く、大きな喪の事がある時には喪の次第を書いたものを持て然うして務める、それから誄詞をやる事なども大史が勤める、夫から小さい喪、諸侯以下の喪、公卿大夫の喪になりますと、天子から諡を賜ふといふ職務を大史が勤める。
 其外に周の時には射禮を重じました、大射禮も小射禮もありますが、其の時に「飾レ[#「レ」は返り点]中舍レ[#「レ」は返り点]※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−9]執二[#「二」は返り点]其禮事一[#「一」は返り点]」とあります、中といふのは※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−10]を容れる道具であります、※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−10]といふのは何かと云ふに、弓を射る時の弓の數取の籤である、其※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−10]を容れる物を「中」と云ふ、何本矢が中つたかと云ふ事を計算する物が※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−11]で、※[#「※」は「竹かんむり+弄」、読みは「さん」、第3水準1−89−64、148−11]を容れるものが中である、之を飾りつけるものが大史の職務になつて居る。
 其次に小史といふものゝ職務を擧げて、國の記録を掌つて居つて、公卿大夫其外の系圖を定め、昭穆即ち親族の順序を定め、何か事があつた時には王の忌むべき事、昔は種々な事を忌みました、日本でも「かたたがひ」などいふことがありましたが、然ういふ忌む事を王に告げる、大いなる祭があつた時には禮法を讀む職務になります、それから大いなる喪、大いなる會同、大いなる賓客、大いなる軍のあつた時、之は大史の職務を助ける、凡て國の事で禮法次第書を掌ることは、其の中の大事は大史が掌るが、小事は小史が掌る、諡を賜はり誄を讀むことも關係して居る。
 この大史に附屬した官で昔から在來りました馮相氏、保章氏といふものを次に擧げてありますが、此の事をお話しますと長くなりますから省きます。
 それから内史といふ者があります、これは制度、法律に關係したことを掌ることを書いてあります、爵を與へること、禄を與へること、廢すること、置くこと、殺すこと、生すこと、與へること、奪ふこと。この八つの事を掌ることが書いてあります、それから諸侯に命令、公卿大夫などに官を申し付ること、策命を書くことを書いてあります、それから王の直領の中の事柄は内史が之を讀むといふことが書いてある、大體然ういふ風な命令に關係したことを多く掌る官である。
 それから外史でありますが、これは外令を書することを掌ると書いてあります、王の直の領分以外の命令に關することを掌る、それから三皇五帝の書を掌る、即ち周代にも自分の王朝の時の記録でなしにその以前の王朝のことを掌るのは外史が掌ることになつて居る、又周の王朝に使つて居る文字が一般に普及するやうに、諸侯の國々によつて文字の使方が違はないやうにする爲に文字を四方に達するやうなことを掌る、それから亦書いた物を持つて四方に使ひする時其の文を書く、昔は口上の使者もあり文書を持て行く使者もあります、文書を持つて行く使者の時に其の文書を書くといふのが外史の職務であります。
 其次に御史であります、御史は邦國都鄙及び萬民を治むることを掌ると云ふことを書いてありまして、これは周の時の冢宰の副官になるのだと云ふことを書いてあります。大體然ういふ風なことで五つの種類の史の職務がありますが、其外に周禮では各々の官に皆府史胥徒と申す者があります、此際の史といふものは今日の書記官、書記といふやうな事柄でありまして、何でも物を書くやうなものを史と申しました。其れだけが周禮に在る史の職務の大體でありますが、併し前にも申しました如く、周禮と云ふ本は殊に古書の中で眞僞の議論の喧ましいものであります、或種類の學者、殊に近年支那で最新の經學をやる人には周禮といふものは僞書といふ説が大分多いのであります、亦周禮を信用する人もあります、一體周禮の中の何處迄信用が出來て何處まで信用が出來ぬと云ふことは、專門の學者の難かしいことになつて居ります、で吾々は專門家でもありませぬから、其の判斷をすることが餘程困難でありますが、併し今日に於いて吾々が周禮の中で何處までが安全で信ずることが出來るかと云ふことをきめる可き標準が無いではありませぬ。
 それは今申上げた通り周禮を信ずる學派と信じない學派と二つあります、支那ではそれを古文學派、今文學派と申します、周禮を信ずる學派を古文學派と申し、周禮を信じない學派を今文學派と申します、それ故に簡短に申せば二通りに分れて居る、それで其の古文、今文といふ由來まで申しますと長くなりますが、大體秦が書を焚きまして漢で學問が興りました、最初に興りましたのが今文學で、秦漢以前に行はれた古い文字は漢代の人には大分讀みにくゝなつて居る、漢の時に通用して居りました文字は今日で申せば隸書でありますが、其の讀みにくい古文をその當時通用の文字に改めた書が
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