、處が南史氏の家で大史の家の兄弟が二人まで崔杼に殺されたと聞いて自分が行つて其のことを書かうと簡を執つて出掛けて行きました所が、其の途中で、大史氏の今一人の弟が崔杼君を弑すと書いた、所で到底崔杼の權力で史家の直筆を止めることが出來ないと感じて、そのまゝ書きのこさして了つたと云ふことを聞いて南史氏が安心して歸つたと云ふ話がある、然ういふ風に史官の職務といふものは非常に重ぜられたものでありますが、之は天子なり、諸侯なりの顧問役のやうな職務を執つて居るから、重要な官と考へられて居つたらうと思ひます、秦漢以後になりますと、其の職務の模樣も變り官吏は世襲でなくして、天子から命ぜられてなることになりましたから、其人一代かぎり命ぜられるのでありますけれども、史は直筆を曲げないものと云ふ言傳へだけは支那に遺つて參りましたのは、斯ういふ起原があるからで、大體史の起原は數を掌り、又天文を掌るいろ/\の數を記憶することから發達したものと考へます。
 今日お話し致したいと思ふことは大體其位で盡きて居るのであります、唯だ茲に全く問題以外でお話して置き度いのは、今度地理歴史の教職を有つて居られる諸君の御會合といふ
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