取であつたらうと思ひます、今日でも球などを就いてゲームをする人が數取が側に居つてチヤンと數を數へてるやうなもので、昔周の時には大射禮といふものがあります、隣國との境に弓を射る事が禮儀になつて居る、其の數を取ることは餘程必要な職務であつて、それが史であつたものと思ふ、それは儀禮に出て居る大史小史である、それが亦周禮に載つて居る大史にも當る、私は此の考を後に羅振玉氏に話しました所が、夫は宜からうと云ふことで、幾らか安心をしました、それは最初の史官の話でありますが、昔は數をかぞへるといふ事は餘程大事なことでありまして、文字の十分發達しない時から、數に依つて物を記憶する、結繩の政も數のことから出て居る、又支那で天下を治むる大法を書いた尚書の洪範篇には、其の大法を九つの項目に分けたので、其の各々の中に五とか六とか或は八とかの小項目を系けてあつて、何でも數で記憶するやうに作つてありますから、數を記憶さすと云ふことは餘程肝心な事であつたと思ひます、夫で第一史の職務といふものは弓の中つた數をかぞへる所から、其外の數を記憶することも段々の史の職務になつて來たのであらうかと考へます。
 數をかぞへると云ふことが段々發達しますと、昔は暦日天文の事が餘程大切なことになります、數の發達したのが古代では天文の職務であります、そこで大史の職務の中には天文の職務が主もなる職務になつて入つて來た、それから段々史といふものが筆を執つて物を書くやうになつたらうと思ふのでありますが、兎に角史官の起原は然ういふ所から來た、それは何時代頃からかと云ふと、殷虚の龜の甲に書いてあつた所から觀れば、殷代には既に在つたらうと思ひます。
 夫から史官の盛んになつたのは周の時代と考へます、周の時代には史の職務を苗字同樣にしたものがあります、史某、大史某、内史某と云ふ人もありました、殊に周の制度を建てた者で周公と並び稱せられた史佚といふ人があります、之は傳説に依れば周公と並んで聖人と稱せられました、即ち史官で最も豪い人は聖人とも稱せられました、今日知られて居ります所に依ると、殷代では史と云ふ職務の人に豪い人が無くて、却つて巫某といふ人に有名な人がある、例へば巫賢、巫咸などがあります、殷では鬼神を祭ることを尊ぶ風俗があります、そこで殷代では神を祭る方の職務の巫の方に賢人とも謂はるゝ宰相同樣の人があつたが、夫が周代になつて史と
前へ 次へ
全14ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング