味に用ゐられてゐる。丁度此の思想と釋言の齊中也との思想とは大體一致するのであつて、恐らく戰國の頃文化の中心が齊にあつた時、即ち稷下に多く學者が集つた時代の思想と推測し得られるのである。それから殷中也に就いては、郭璞は書の堯典の以殷仲春で解釋してゐるけれども、齊中也と同じやうな意味から來たものとすれば、殷も地名と考へてよいのである。殷を中央とする思想は矢張り孔子を素王とする思想と關係があるので、殷中也との解釋は恐らく孔子素王説の起る頃に出來たのではないかと思ふ。さうすると釋言の篇首に此の二つの異つた思想が一句に含まれてゐるのは如何といふに、恐らく最初は殷中也だけであつたのが、後になつて齊中也が竄入せられたのであるかも知れない。それで大體から考へても釋言の全體の體裁は釋地などの體裁よりも古樸に出來てゐるから、釋言の製作は殷中也との思想の起つた時代にあると見るのが適當であらう。さうすると大體七十子以後孟子以前の時代と考へてよからうと思ふ。從つて釋詁が其の以前に出來たとすれば、周禮大宗伯の疏に爾雅者孔子門人作以釋六藝之文言とあるのが、必ずしも無稽といふことが出來ぬのである。
 次は釋訓篇である
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