文鏡祕府論といふものを作つたのであるといふことを言はれて居ります。是は支那から歸られてから幾年ぐらゐ經つて之を作られたかと云ふことははつきり分りませぬが、後に文鏡祕府論をもう一つ簡略にして、文筆眼心抄と云ふ本を書いて居られます。それは弘仁十何年かに之を書かれたといふことは分つて居りますから、文鏡祕府論は其の以前に出來て居つたと云ふことが分ります。
 先づ之を作られた由來は大體そんなものでありますが、之を作るに就いて弘法大師はどう云ふ書籍を重もに參考されたかと云ふことは、谷本博士が苦心をされた結果、其の種本とも謂はれるものを擧げて居られます。それは即ち大師の詩文集たる所の性靈集の中に王昌齡と申します人、盛唐の時分に有名な詩人で、絶句に巧みであつた人があります。其の人の著はした詩格と云ふ本があります。即ち詩の格式であります。それを土臺にして文鏡祕府論を書かれたらうと云ふ御考へであります。私も大變面白い御考へと思つて、それから段々調べて見ますと、勿論此の王昌齡の詩格と云ふものは、大師の文鏡祕府論の種本になつて居るやうでありますが、其の外にも隨分いろ/\な本を參考されて居るやうであります。所で
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